『アウシュヴィッツの争点』(58)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.9.9

第4部 マスメディア報道の裏側

第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 2

ヴァンゼー「会談」主催者をヒトラーにしてしまう「おそまつ」

 カットインで画面はかわって、翼をのばした鳥がふんわりと風にのって舞う湖のほとり。森のなかの白い石造りの邸宅にフォーカスイン(接近)し、おもむろに解説のセリフがはいる。

「ベルリン、ヴァンゼーの宮殿。いまから五〇年あまり前、アドルフ・ヒトラーは、この建物に政府高官たちを集め、ユダヤ人問題の最終的解決を討議した」

 この解説には、ニュルンベルグ裁判の誤りにみちた「事実認定」すら無視したあたらしい歪曲がある。せいぜい「豪邸」といえるほどの屋敷を「宮殿」とよぶだけの歪曲なら、ご愛嬌ですむ。だが、「アドルフ・ヒトラー」を主語にしたのは、完全なまちがいであり、もしかすると厚かましいまでの大衆欺瞞の情報操作のたくらみである。絶滅説の「事実認定」では、ヒトラーも親衛隊長のヒムラーも「ヴァンゼー会談」には参加していない。「ヴァンゼー会談」の主催者は、ゲシュタポ長官兼保安警察長官のラインハルト・ハイドリッヒだということになっている。

 なお、ハイドリッヒは戦争中に暗殺されているので、ニュルンベルグ裁判の当時すでに「死人に口なし」の状態であった。

 話を作品にもどすと、さきの明瞭なまちがいをふくむセリフと同時に、ヴァンゼーの邸宅の内部を移動する画面のうえに、タイプ文字の書類の文章と数表が白抜きでスーパーされる。この邸宅で「最終的解決」の「討議」がおこなわれた「事実」を、記録という「物的証拠」の存在によって強調しているわけだ。典型的なドキュメンタリー手法の画面構成である。その画面にあわせてセリフはつづく。

「そのさいにつくられた報告文書には、ヨーロッパ各地のユダヤ人の数が、ことこまかに記載されている。その数は、あわせて一千一〇〇万人であった」

 文書の中の表の最後、「11、000、000」の数字がアップで強調される。

 シオニストがもっとも強く実現をのぞんでいた構想は、旧約聖書のシオンの丘があると称するエルサレムを中心としたパレスチナでの建国だった。その目的地が一時はマダガスカルにかわり、この「会談」があったとされる時期にはロシアの占領地にかわっていた。だが、この作品では、「最終的解決」という用語の解釈をめぐって現在も継続中の論争どころか、そのような移住政策の事実経過さえ完全に抹殺されている。つまり、この作品は、みずからがテーマとして選んでいる「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の核心的な主張どころか、絶滅論者による事実経過説明すら紹介しようとしていないのだ。

 画面の「11、000、000」という数字を印象づけるために、すこし間をおいてから、おもおもしい調子のセリフがつづく。

「ナチスによるユダヤ人虐殺への道は、ここを起点としている。こののち、数百万人のユダヤ人が抹殺された。だがいま、歴史は風化の危機にさらされている」

「ユダヤ人問題の最終的解決」という表現にはここで、議論の余地なしに、「ユダヤ人虐殺」と同一のイメージがあたえられる。

 だがまず、一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない。

 さらに決定的なのは、絶滅的に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。

 ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。

 ヴァンゼー会議がおこなわれたとざれているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二○日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾があきらかになり、書きなおしをせまられているのである。

「会議録」は国際検察局のケンプナーが作成の「偽造文書」という説

 シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。

 当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。内容的に最も奇妙なのは、「東方移送」するユダヤ人のうちで「労働が可能な者」に「道路建設」をさせるという、実際にはおこなわれていない作業命令の部分である。当時のナチス・ドイツでは、アウシュヴィッツなどの軍需工場群への労働力供給が最優先課題だった。「東方移送」は鉄道を利用しており、「道路建設」の必要はなかった。

 シュテーグリッヒ判事は別の箇所で、つぎの点に注意をむけている。

「いわゆるヴァンゼー文書は、アメリカのケンプナー検事が[ニュルンベルグの国際軍事裁判の]のちにおこなわれた“ヴィルヘルム通り”裁判ではじめて提出したものである」

 ケンプナーは、ニュルンベルグ裁判ではアメリカのジャクソン主席検事の「準備チーム」に属していた。つまり、法廷では裏方だったのだが、その後、高級官僚を被告にした“ヴィルヘルム通り”裁判では主席検事になった。そこではじめてケンプナーが「いわゆるヴァンゼー文書」を提出したというのは、非常に興味深いことである。すでに国際軍事裁判で「ホロコースト」物語は認定されている。しかし、自分が主役の裁判となると、ケンプナーには不安がある。すでに一部から疑問がだされていたからだ。そこで、ゆらぐ屋台骨をささえるために「ニセ文書」をつくったと考えれば、納得がいく。

 わたしの考えでは、まず、「一千一〇〇万人」という数字をことさらに強調した点があやしい。すでに第一部で紹介したように、当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五〇万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、「六〇〇万人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで「偽造文書作成者」、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、「一千一〇〇万人」のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。もう一つの「道路建設」作業についても、「軍需工場群への労働力供給」と「絶滅」政策の論理的矛盾をすこしでもぼかしたいと願ったものという可能性がある。

 たとえば『裁かれざるナチス』の著者、ペーター・プシビルスキは、元東ドイツの検事で最高検察庁の広報局長という立場にあった。彼の見解は、元東ドイツの公式見解だったと考えていいだろう。この本ではヨーロッパのユダヤ人を「六〇〇万人」としており、「最終的解決」「ガス室」「ニュルンベルグ」の裁判が、つぎのように簡潔に、または短絡的にむすびつけられている。

「ヨーロッパ全域にわたる六〇〇万のユダヤ人が、この『最終的解決』の過程で駆りたてられ、ガス室に送られ、『注射によって殺され』、あるいは死にいたるまで酷使されたのである。だがニュルンベルグではそのような事実は関知しない、自分に責任はない、と主張する者ばかりだった」

 つまり、ニュルンベルグ裁判で「最終的解決」の陰謀にくわわったと認定された被告たちは、すべて罪状を否認していたのである。だが、このデンマーク製の映像作品には、そのような疑問点はいささかも映しだされない。「ナチス」、「虐殺」、いたましい歴史的イメージの余韻をひびかせつつ、カメラはふるめかしい邸宅の内部を移動しながらゆっくりとうつしだす。


(59)アウシュヴィッツの遺影とアンネ・フランクの『日記』