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試訳:マイダネクのガス室

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:平成2006810

 

本試訳は当研究会が、研究目的で、Carlo Mattogno, The Gas Chambers of Majdanek, Ernst Gaus, Dissecting the Holocaust. The Growing Critique of 'Truth' and 'memory', (Ed.), Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2000を試訳したものである
 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原著、原文を参照していただきたい。

 online: http://vho.org/GB/Books/dth/fndMattogno.html

[歴史的修正主義研究会による解題]

マットーニョが、ホロコースト正史ではアウシュヴィッツとならぶ「絶滅収容所」とされてきたマイダネク収容所の「ガス室」を実証的に分析したもの。論集『ホロコーストの解剖』の論文。

 

 

マイダネクのガス室[1]

 

序論

 ポーランド・ソ連調査委員会が「マイダネク」として知られているルブリン強制収容所に殺人ガス室が存在したと発表したのは、1944年8月のことであった。この委員会の「発見」に信用できるような証拠を与えることに責任を負ったポーランドの歴史家たちは、きわめて当惑してしまうような困難に直面した。第一に、残っていたマイダネク強制収容所中央建設局の文書には、このガス室は「害虫駆除室」、「殺菌消毒室」と言及されていたし、第二に、人間がガス処刑されたという目撃証言がまったくなかったからである。第一の問題については、ポーランドの歴史学は次のように「解決した」。すなわち、文書では「カモフラージュ言語」が使われており、害虫駆除とか殺菌消毒を指している文書は、殺人ガス処刑を指しているというのである。チクロンが収容所に配送されたことも同じように解釈された。

 第二の問題については、殺人ガス処刑とされている事柄を分かりやすいかたちで具体的に記述している目撃証言を一つたりとも提出できなかったにもかかわらず、ポーランドの歴史家たちは、(いわゆる)殺人ガス処刑についての短く、非常にあいまいな記述を使って、殺人大量ガス処刑の雰囲気なるものを作り上げてきた。このような議論の中では、マイダネクの殺人ガス室が実在したとする決定的証拠は、たんに、ガス室であったとされる場所の存在であった。この主要な物的証拠は、目撃証言(上記の意味での)とチクロンBの配送という二つの補助的な証拠によって補強されている。

 いわゆる殺人ガス室の多くは、ポーランドの歴史学によると、もっとも集中的に犯罪目的のために使われたとされる部屋は、もともとは、本物のチクロンBのガス室であったので、物的証拠を過小評価すべきではない。事実、今日であっても(あるいはこの論文が述べているように)、これらの部屋でシアンガスが使われたことは、壁に残っている大きな青いしみによって明らかであることが簡単に証明できるのである。いわゆる殺人ガス室のうちに2つには、一酸化炭素の放出に使われたとされてきた特別装置がある。だから、問題は非常に重要であり、残っている資料と当該地点を徹底的に調査しなくてはならないのである。

 このテーマを扱う本論[2]は、マイダネクには殺人ガス室があったのかという問題に決定的な解答を与えようとするものである。

 

1. ガス室の数と目的:1944年8月4-23日のポーランド・ソ連専門家報告

 マイダネクの解放(すなわち連合国の軍事占領)から二週間もたっていない1944年8月4日、ポーランド・ソ連委員会は、この収容所の大量ガス処刑施設といわれている場所を技術的・化学的に検証した。この作業は8月23日に終了した。ポーランド・ソ連委員会は、7つのガス室の場所を特定し、その正確な図面も作成した。[3] これらの文章で最も重要な情報は、次の表にまとめられる。[4] 

 

場所

呼称と目的

広さ m

面積 ㎡

ガス室Ⅰ

殺菌消毒施設SE

4.50×3.80

17.1

ガス室Ⅱ

殺菌消毒施設NE

4.50×3.80

17.1

ガス室Ⅲ

殺菌消毒害虫駆除施設

9.27×3.80

35.2

ガス室Ⅳ

バラック41シャワー室に隣接したガス室

 

72.2[5]

ガス室Ⅴ

バラック28乾燥施設

11.75×6.00

70.5

ガス室Ⅵ

バラック28乾燥施設

11.75×6.00

70.5

ガス室Ⅶ

新焼却棟、死体安置室と検死室の間の部屋

6.10×5.62

34.9

地下室14

ガス室ⅠとⅡの前にある殺菌消毒施設

2.15×1.73

3.7

 

 委員会の結論は、ガス室Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅶは大量殺人のために設計・建設されたが、Ⅴ、Ⅵは殺菌消毒室として使われ、もっぱら、殺された収容者の衣服の殺菌消毒のために使われたというものであった。さらに、委員会は、化学製品保管バラックで、以下の52点を発見した。

 

 a. 5つの空の一酸化炭素ボンベ

 b. ベルリンのアウアー社製の一酸化炭素フィルターのついた1つの缶

 c. 各500gのチクロンBの缶135、各1500gの缶400、うち90%は空

 

 委員会はまた、実際に何が入っていたのかを確定するために、これらの製品に化学報告を作成した。化学反応テストは、その中身が一酸化炭素と青酸という標識に実際に対応していることを示した。[6]

 

2. ガス室の設計、建設、目的

 残っている資料は、ポーランド・ソ連委員会の結論とは正反対のことを証明している。資料は、マイダネクの実際のガス室は、害虫駆除室という衛生目的でだけ、設計・建設されたことを証明している。

 1942年3月23日の中央建設局の青写真は[7]3つの害虫駆除施設を描いている。一つは、マイダネク強制収容所(マイダネクはもともとは「捕虜収容所」であり、のちに「ルブリン強制収容所」と呼ばれた)の中央のH型の施設である。H型施設は「害虫駆除」と呼ばれ、大きな洗濯室の隣であった。二つ目は、やはり、「害虫駆除」と呼ばれるバラックであり、収容所の北西の外側であった。三つ目は、詳しい図面から分かるように、「武装SS衣服工場」と呼ばれる収容所の区画にあった。[8]

 ルブリン強制収容所のH型施設が設計されたのは1941年10月であり、それは、マイダネクに最初の囚人がやってきた月であった。ハンス・コリ会社が作成した図面には、大きな衛生・保健施設が描かれており、二つのまったく同一の害虫駆除施設から構成されることになっていた。囚人用の施設は左側に、8つの衣服害虫駆除室からなるもう一つは、右側にあった。

 囚人害虫駆除室は、1941年10月23日の図面J.-No.9082[9]にあり、コリ会社によって作成されている。これは、会社が同じ日にSS少佐レンツァーに出した書簡の中に描かれている。[10]


 

1:ポーランドソ連委員会が作成した「ガス室」Ⅰ―Ⅳの図面の詳細3

 

 記述と図面からも分かるように、建物の左翼は収容者の害虫駆除のために設計されており、以下の手順であった。衣服の受け取り場所を持った脱衣室―玄関―シャワー室―乾燥室―玄関―殺菌消毒。完全に殺菌消毒されたのち、収容者は右翼に入り、そこで害虫駆除された衣服を受け取る。[11]

 上記のコリ社の書簡から見た害虫駆除施設は、8つの害虫駆除ガス室から構成されることになっていた。それぞれは、幅2m、高さ2.1m、長さ3.5mであった。そして、二組のガス室の間にある二つの外壁の後ろの石炭燃料温風器によって温められた。温風の出口は各内壁の上部に組み込まれ、温風器とつながっていた。各二組の煙突があるフロアーの反対側の壁の前には、換気口があり、地下の通風シャフトを介して、やはり、温風器とつながっていた。これらの害虫駆除室は、何と、チクロンBではなく温風だけを使用するものとして設計された。だが、コリ社の設計した害虫駆除施設は建設されなかった。

 「ルブリン強制収容所臨時害虫駆除施設」[12]という1942年3月31日の中央建設局の図面には、かなり小さくて、温風器なしの8つの害虫駆除室が載っている。これらは、ビルケナウの建物に設置されたような金属製の殺菌消毒機器に違いないであろう。

 この図面には、40.76×9.56mの「害虫駆除施設」と呼ばれたバラックの一つの内部にある13.5×4mの部屋のなかにある、並立した8つの小さな小部屋が載っている。この小部屋ブロックは、外部に面した「不潔」サイドをシャワー室の隣の建物の「清潔」サイドから分けていた。収容者は次のような手順をたどる。入所/登録―脱衣/シャワー室―シャワー室―着衣室―出所。着替えは次のような手順をたどった。衣服を手渡す―害虫駆除(「不潔」→「清潔」)―清潔な衣服の受け取り。シャワー室には40のシャワーがあった。温水はボイラー室からやってきた。これは、収容所の外にある害虫駆除施設が1942年3月23日のオリジナル計画にそったものであったことを示している。建物の窓を通して見るかぎり――この窓は訪問者にはアクセスできないようにされている――、計画は少々修正されて、実際に、建物42(BWXII)に実現された。[13] この建物には、コンクリートのボイラー室とガス室があり、図面にある建物よりもはるかに大きい。

 中央建設局報告によると、BWXIIは1942年7月1日に、40%完成した。報告はこのように述べている。

 

BWII害虫駆除・浴室はシャワー室施設をもつ第二の小屋に加えてもうすぐ建設される。」[14]

 

 次節で扱うことになるこの第二の施設は、建物14で、それは東地区、建物42の隣に建てられた。

 1942年6月19日、SS経済管理本部の中央建設監査局長であったSS少佐レンツァーは[15]SS経済管理本部BII課からの5月27日の要請を、総督府武装SS警察建設監査局に提出した。それは、「青酸を使った殺菌消毒システムによる」害虫駆除施設をルブリンの衣服建物に建設することに関してであった。[16]

 1942年7月10日、中央建設局長はすべての行政文書を総督府武装SS警察建設管理局に送った。その文書にはとくに、初期の配置、注をつけられた報告、建物の呼称A、コストの見積もり、1:500縮尺の収容所図面、殺菌消毒バラックの設計図が入っている。添え状はこう記している。

 

「ルブリンの毛皮・衣服作業場の中に建物XIIという殺菌消毒施設を追加建設するには70000マルクかかりますが、その承認と必要な資材の準備が求められます。それは、1942年6月27日の見積もりにしたがった付録の中に入っています。ポーランドの企業価格は、コスト見積もりの間に決定されるでしょう。」[17]

 

 添え状がつけられた文書の中で、残っているのは、注をつけられた報告とコスト見積もりだけであり、それはともに、1942年7月10日、中央建設局が書いたものである。以下は第一の文書の全文であるが、この施設の目的を明らかにしている。

「ルブリンの毛皮・衣服作業場のために殺菌消毒施設を建設することについての説明報告。

 

 入ってくるすべての毛皮と衣服を殺菌消毒するための施設が、SS経済管理本部の計画にしたがって、建設されることになっている。同封の手紙からも見ることができるように、殺菌消毒室は、補強されたコンクリートの天井を持つとても堅牢な建物となるだろう。さらに、いわゆる積み上げデッキがこの害虫駆除ガス室の上に建てられるであろう。積み上げデッキは、60.0×18.0mの広さで、殺菌消毒された物品を配置・保管するためのものである。BII課が、炉その他の装置を利用できるようにするだろう。その他すべての案件は図解に従うことになる。」[18]

 

 「ルブリンの毛皮・衣服作業場のための殺菌消毒室を建設するコスト見積もり」は27項からなっており、総額14万ズオチ(ポーランド通貨単位)を提示している。第18項は次のように述べている。

 

「製造元から搬入された気密鉄製ドア4つを、すべての壁塗り仕事も含んで、錠前職人の助けを借りて設置すること。」[19]

 

 オリジナルな設計は、その最終完成図面が残っているが、建設局図面「ルブリン強制収容所殺菌消毒施設、建物XII」[20]である。そこには、10.76m×8.64m×2.45mの長方形のブロックが描かれており、その中には、長さ10m、幅3.75m、高さ2mの二つの殺菌消毒室があった。各部屋には、幅0.95m、高さ1.80mの二つのドアがついていた。二つの殺菌消毒室を持つブロックの上には、積み上げデッキがあり、それはやはり、18m×60mの長方形で、真ん中の地点で、同じ広さで半分に分けられていた。「不潔」サイドと「清潔」サイドに対応していたのである。殺菌消毒室の二つのドアの間の、より小さな側にある「清潔」サイドには上述したコリ社の温風器と構造的に似た石炭燃料炉がある。炉は0.66m沈められており、低い部分には、防火ドアがあり、4ステップの階段でアクセスできるようになっていた。煙突パイプは、上の部分に設置されていた。

 殺菌消毒施設は、青酸を使っていたので、この炉が空気を暖めて、ガス混合空気の循環をスピードアップしていた。

 暖房システムをのぞいて、建設はこの設計にそって進められた。[21] 中央の炉は、二つの温風装置に取って代わった。それは、Theodor Klein Maschinen-und Apparatebau Ludwigshafen社製で、中央建設局が1942年9月11日に発注したものであった。[22] 一つは、殺菌消毒室(ポーランド・ソ連報告ではガス室Ⅲ)の西側の外壁に、もう一つは、次節で検討するように、バラック41の「ガス室」と結びついている。

 クライン温風装置は燃焼室(Feuerung)とその上にあるスチーム・ベルト(Heizkammer)からなり、復熱装置を持っている。復熱装置はリブで固定された一連の垂直の熱パイプからなっている。パイプは下の炉室、上の排気煙突につながっている。

 スチーム・ベルトは[23]、燃焼室の隣の部屋の上にファンを持っていた。圧縮空気パイプがファンから外に出ていた。空気流入調整スロットルを備えた吸気パイプの穴は、ファンの前にあった。圧縮空気パイプと吸気パイプは二つとも直径31㎝であった。これらのパイプは、壁のなかの2つの丸い穴を介して、温風器のある場所と結びついていた。この装置は次のように稼動した。燃焼室からの煙は、復熱器のパイプを通過し、その熱の一部をパイプに伝える。そして、その後、煙は煙突を介して戸外に出る。ファンが稼動しているときには、吸気パイプを介して強制的に排出される空気は、復熱器の灼熱したパイプに触れて、熱せられる。それから、圧縮空気パイプを介して、ファンによって、その場所に押し込められる。これによって、温風がいつも循環することになる。温風器は、1時間に80000キロカロリーの熱を放出し、摂氏120度まで気温を上げることができた。気温は空気スロットル、および、特別に設計された吸気によって、外部から冷たい空気を循環に送り込んで、調整された。[24]

 チクロンBによる害虫駆除にあっては、気温が低いレベルに調整されると、温風器がデゲシュ社の循環システムと同様の機能を果たした。

 上記のものと類似した温風器はアウシュヴィッツ強制収容所(保護収容所)BW20に1942年秋に設置された。[25]

 1942年10月22日、中央建設局長は収容所のさまざまな建設計画の作業進行について、SS-Wirtschafter des Höheren SS- und Polizeiführerに報告書を送った。ルブリン捕虜収容所の建設計画の中で、完成したものは、「浴室を持つ2つの害虫駆除室、一部は木造の柱、一部は堅牢な土台で立てられていた」であった。

 ルブリンの毛皮・衣服作業場の建設計画に関しては、報告書は、完成した計画の中に「殺菌消毒室の建設」を含めている。「4つの殺菌消毒室の設置」は11月1日以降に完成するはずである計画の中にも言及されている。[26] 殺菌消毒施設は小屋41の隣に設置され、二つの殺菌消毒室すなわちBW XIIAから構成されている。

 前述した「1942年7月1日時点のパーセンテージで表現された建設終了」に関する中央建設局報告からも分かるとおり、捕虜収容所建設計画にあるこれら二つの小屋は、小屋42と41である。しかし、この資料は小屋41をたんに「シャワーバスを持つ小屋」と表現しているだけである。すなわち、害虫駆除施設は翌月にわたって設置されたに違いないのである。

 この施設は、1942年11月18日のポーランドの会社ルブリンMichael Ochnik Construction Contractorsのコスト見積もりにも登場している。それは、毛皮・衣服作業場のなかの「ガス室」に0.75m×0.70m×1.70mの二つの大きな煙突――コンクリートの天井に穴を開ける作業も含む――を285ズロチとするものであった。[27]

 1943年1月8日、Michael Ochnik社は、中央建設局に、ルブリン武装SS毛皮作業場についての発送状を送っている。

 

「煉瓦の建物の中のガス室の煙突の両側にある煙突と流れの供給[28]への煉瓦作業。セメントの天井に二つの穴を開けること、0.75m×0.70m×1.70mの煙突の煉瓦を組むこと」[29]

 

 事実、4m離れている、60cm×60cm×40cm×40cmの二つの穴は、今日でも、上記の部屋(Lokal)の天井に存在している。上記の発送状によると、二つのパイプがこれらの二つの穴に設置されている。中央煙突につながっているパイプは直径0.75m、高さ1.70mである。

 BW XIIAの殺菌消毒室だけでは、毛皮・衣服作業場には、明らかに不十分であった。前述したように、中央建設局は、同じ建設計画のために、4つの追加の殺菌消毒室の建設を計画していたからである。中央建設局は、上記のルブリンのMichael Ochnik Construction会社とワルシャワのPolstephan Bauunternehmung(建設会社)という二つの民間会社に、既存の建物を殺菌消毒施設に改築する作業を終わらせる仕事を割り当てた。

 二つの会社は、以前の空港に配置されるはずである「既存の建物に4つの殺菌消毒室を建設するコスト見積もり」を提示した。1942年11月10日のOchnik社のコスト見積もりは、総額10345ズロチであった。[30] 1942年11月10日のPolstephan社の発送状は総額10345ズロチであった。[31] 二つの文書から、殺菌消毒室は「鉄製のガス(気密)ドア」を備えており、ドア開口部は0.83m×1.93mであったことが明らかである。各部屋は「殺菌消毒炉」――「ガス炉」とも呼ばれている――とつながっており、気密屋根で保護されていた。[32]

 

3. 殺人目的用のガス室の使用

 上の節で、マイダネクの実際のガス室が設計・建設されたのは、もっぱら保健・衛生目的であったことを示してきた。もちろん、理論的には、あとから、これらの建物を殺人目的用に変えることはできる。この可能性は、技術的な観点から、この節で検証される。

 プレサックは、ロイヒター報告への回答の中で、マイダネクのガス室について、詳しい、部分的には、かなり洞察的な分析をしている。[33] この分析は、以下の議論のすばらしい出発点となっている。だが、以下の議論では、ポーランド・ソ連委員会が使った建物の番号付けを採用する。さらに、部屋IIIaも追加する。「部屋IIIa」という用語は、BWXIIaの害虫駆除室が部屋Ⅰと部屋Ⅱに分割される前の東の害虫駆除室を指している。

 a) 部屋Ⅰ-Ⅲ

 プレサックは、この施設がどのように誕生・発展していったかについてまったく専門的な知識を持っていないので、歴史的に根拠のない説を出している。彼は、第二の温風器がもともともう一つの殺菌消毒室(すなわち部屋Ⅲa)に設置されており、二つの部屋はもともと温風殺菌消毒室であったと考えている。そして、実際的な使用困難さのために、のちに、青酸ガス室に改造されたというのである。[34]

 しかし、前節から明らかなように、小屋41に隣接する施設の殺菌消毒室は、もともと、「青酸殺菌消毒システムにしたがって」設計されており、それゆえ、実際には、温風施設をHCN施設に改造することなど、まったく問題とはならなかったのである。この問題にはのちに立ち返ろう。

 プレサックによると、

 

「ブロックを最終的に改造した結果、一酸化炭素で人間を殺害するガス室が作り出された。この施設が犯罪目的に使われたことには、まったく疑問の余地がない。一酸化炭素は人間を含む温血動物に致命的であり、シラミの駆除にはまったく無益だからである。

 場所B(部屋Ⅲa)は、同じ広さの二つの部屋に分割された。それをB1(部屋Ⅰ)とB2(部屋Ⅱ)と呼んできた。B1だけが、一酸化炭素を導入するシステムを持っている。このシステムは、床から30㎝のところに、部屋の3方向に走る補強された金属管からなっている。これらのパイプはもともとは、液体一酸化炭素の金属ボンベとつながっていた。外壁の部屋は、ブロックの西[南[35]]側の真ん中に建てられた。この部屋には二つの一酸化炭素ボンベ(二番目のものは部屋A[部屋Ⅲ]用である)、および、鉄網で保護されたガラス製ののぞき穴がある。殺人ガス処刑ができたのは、部屋B1だけであった。対応する施設は部屋B2にはまったく建てられなかった。穴が二つの部屋の天井に開けられた、前述したように新しく作られた。以前には部屋Bを温めていた燃焼室はもはや必要ではなくなり、部屋C[部屋Ⅳ]の南[東]の壁に再び設置された。部屋BがチクロンBのガス室として使われたのちに分割されたことは、隔壁によって半分に分けられた壁が青いしみで染まっていることからも分かる。隔壁自体はまったく青いしみを残していない。

 部屋Aも外部の部屋にある二番目のボンベからの一酸化炭素の放出装置を備えている。その施設は、床から30㎝のところに、南の壁[東の壁]に走るパイプからなっている。ガスは、部屋の隅にあるパイプの二つの端にある補強された金属プレートを流れる。天井には穴はなく、横の部屋から室内を眺めることはできない。

 部屋A、B1、B2のどれが殺人目的用の青酸ガス室として使われたかどうかという問題は、解答が難しく、議論を進めなくてはならない問題である。B1とB2では、チクロンBの丸薬は、天井に開けられた穴から投入されたのであろう。私の知るかぎりでは、SS隊員が梯子を使って屋根の上にのぼっていったことを報告している目撃証人は存在しない。36㎡のこれらの二つの部屋の換気には、天井の穴とドア以外には穴がなく、人工的な換気装置もないので、非常に時間がかかったことであろう。チクロンBを部屋Aに投入するには難点があった。マイダネク博物館の歴史家が『チクロンは前の部屋[B1]のように天井の穴からではなく、穴がないので、ドアを閉める前にドアから投入された』と述べているとおりである。率直に言えば、手にチクロンBの缶を持ったガスマスクをつけたSS隊員が、ドアを閉めながら、犠牲者の頭と天井の間の30㎝のスペースに(部屋の前の床に丸薬を落としてしまうという危険をおかしながら)丸薬をばら撒き、しかも、犠牲者の必死の逃亡を防ぐということを想定するのは非現実的である。

 以上の様なことにもとづいて、部屋AがチクロンBを使った殺人目的に使われたとは考えられない。部屋B1とB2では、技術的には可能であるが、これらの建物が実際にこのような目的に使われたことはありそうもない。むしろ、SSは、二つの異なった一酸化炭素ガス室(AとB1)を利用可能としたがっていたと思われる。それは、異なった犠牲者集団のために使われた。部屋A(36㎡)は250-350名の集団に、部屋B1(18㎡)は、125-175名の集団に。これらの数字は生存者によってたびたび言及されており、ガス室に送られた移送者集団の数を示している。最後に、建物B1とB2の天井の穴は、チクロンBの投入というよりも、換気の促進に使われたことであろう。これは、B1とB2だけに適用できる。天井の穴は、殺人目的のブロック区画の「行き止まりの部屋」の中で、まったく消極的な役割を果たしたようである。

 収容所が解放されたとき、ブロックを守っていた飛行機の格納庫が部分的に損傷を受けた。横の部屋は空であった。チクロンBの缶は、そこに積み上げられており、そのために、缶の中身は、(天井の穴を介してではなく)、部屋B1のパイプに投入されたかのような印象を作り出した。収容所では、5つの一酸化酸素ボンベが発見された。その中身を化学的に分析したのちに、そのうちの二つが横の部屋に置かれた。」[36]

 

 ここでもう一度強調しておきたいのは、プレサックはチクロンBの殺人目的での使用を理論的には可能であると考えているが、部屋Ⅲについてはその可能性を排除し、部屋ⅠとⅡについては、その可能性に疑問を呈していることである。私はプレサックの議論に同調するが、以下の考察を付け加える。収容所当局が、二つの殺菌消毒ガス室を殺人目的と、シラミの絶滅のために使いたかったとすると、二つの部屋にチクロンBの投入のために、天井に穴を開けたことであろう。このような穴が部屋Ⅲにないことは、プレサックの議論のように、犯罪目的のためにこの部屋を使った可能性を排除している。部屋Ⅰ[37]とⅡでは、現存の穴は非常に小さいので(26cm×26cmと29cm×33cm)、プレサックの見解とは逆に、換気すらも難しいであろう。さらに、これらの穴は、まったく素人仕事のように天井に開けられている。とくに部屋Ⅱ[38]はそうであり、チクロンBの投入のための木製のシャフトすら存在しない。これらの穴は、ポーランド・ソ連委員会の目的にそうために、急いで開けられたに違いない。注目すべきは、『赤い星』の記者であったソ連のジャーナリスト、コンスタンチン・スミルノフが、解放直後に、マイダネクを訪れて、小屋42の害虫駆除室の天井の穴については、詳しく記述しながらも、そのあとですぐに検証した部屋Ⅰの穴についてはまったく言及していないことである。[39] つまり、この穴は当時存在しなかったという結論となる。

 

2と3:マイダネク強制収容所の小屋41の殺菌消毒施設の部屋1(上)とⅡ(下)の天井の穴(図1の地図参照)© C. Mattogno

 

 

 部屋Ⅲaが二つにガス室に分割されたという話、部屋ⅠとⅢが一酸化炭素ガス室に改造されたという話を検証しなくてはならない。プレサックはこれらの部屋が犯罪目的で使われたことについてはまったく疑問を抱いていないが、彼の議論は、施設が実際に一酸化炭素を使ったという純粋な仮説にもとづいている。結論が証拠よりも前に出ているのである。これらの建物を一酸化炭素ガス処刑に使ったということに関するポーランド・ソ連委員会の結論は、実際には、いかなる証拠にももとづいていない。二つの事実はまったく逆のことを示している。

 第一に、プレサックが正しくも強調しているように、収容所のごく近くでは、二つの部屋の前の地下室にはボンベはなく、解放された収容者が、チクロンBをパイプに投入することで、人々がそこで殺されたとの印象を作り出すために、チクロンBの缶をそこに持ち込んでいた。これについては後で詳しく検討する。

 第二に、上記の横室(地下室)でソ連が発見した5つのボンベのうち二つは、後で、小屋52に積み上げられた。ポーランド・ソ連委員会報告は、これらの5つのボンベが一酸化炭素ボンベであったと主張している。しかし、今日横室に見ることのできる二つのボンベのうちの一つ――見学者から見て右側――は二酸化炭素の記載を持っている。これはボンベの表面に良く見ることができる。[40] よく知られているように、二酸化炭素は毒ガスではない。

 こうした事実から、二つの重要な結論を導き出すことができる。第一に、5つの一酸化炭素ボンベのうちの一つが、実際に二酸化炭素であるとすると、残りのボンベも二酸化炭素ではないのか、ポーランド・ソ連委員会はその他の点と同様に、詐欺行為を行なったのではないかという疑問が生じる。[41] 第二に、たとえ、残りのボンベが一酸化炭素であったとしても、この施設が実際に一酸化炭素ガス処刑に使われたという証拠はまったくないのである。これだけでも、これらの施設が犯罪目的に使われたという話に疑問を投げかけるには十分である。

 委員会が化学的備蓄品のなかに発見したアウエル・フィルターは、サイズと保管方法の点で、一酸化炭素フィルターの特性にとても正確に対応している。毒ガスの分野での専門家は、このやり方を次のようにまとめている。

 

「一酸化炭素から保護するさまざまなフィルターの共通の欠点は、物質を吸収する吸湿性にある。その吸湿性は、フィルターのなかの吸収物体の分布を換える。この結果、湿った環境ではその使用は制限され、湿気のために事前にフィルターが詰まってしまうことを防ぐために、フィルターを保管するには厳格な措置が必要である。フィルターは、使用する前には、気密状態に置かれた箱の中に保管しておかなくてはならない。」[42]

 

 問題となっているフィルターの保管は、十全かつ完全に行なわれなくてはならないようである。次の様な記述(ロシア語からの再翻訳)をつけて完全な気密箱に保管された。

 

「アウエル・フィルター NO.09903。1944年6月以降は使用禁止。最初に使用された日から2年間使うことができる。有効期間は40時間以下。

 最初の使用:

 日付:使用:時間

 から: まで

 注意:使用するごとに、箱を上から下までしっかりと閉めること。冷たく、乾燥した場所に保管すること。」

 

 「日付」と「時間」のスペースがブランクになっていたので、フィルターはまだ使われていないと推定できる。防毒ガス資材の保管に責任を負っていた収容所医師は、ラベルの完全な情報なしで、フィルターを使うことを決して許さなかったであろう。

 

4:部屋1を小さな付属室、小屋41と結ぶ格子を持つ気密されていない穴、マイダネク収容所(図1の地図参照)。© C. Mattogno

 

 他方、この種の一酸化炭素フィルターは、本質的に用途が広く、アンモニア、ベンジン、石灰、ホスゲン、二酸化サルファ、水酸化サルファ、carbon tetrachlorideといったガスにも防毒効果を持つ。それはまた、水酸化シアンガスにも防毒性を持つ。デゲアCOフィルターは6gのHCNを、ドレーガーのCOフィルターは3.3gのHCNを吸収することができる。[43] したがって、このようなフィルターが存在しただけでは、それが一酸化炭素を防ぐために使われたという証拠にはならない。

 プレサックの説は、歴史的に眺めても、根拠がないと思われる。彼は、部屋ⅠとⅡにパイプが設置されたのは、二つの部屋が最初は、温風殺菌消毒室として使われ、ついでチクロンB害虫駆除室と使われたのちのことであったと考えている。

 しかし、部屋Ⅲの東の壁全体に固定されているパイプは、鉄シアンの形成の触媒として作用したかのように、青いしみがひどくついた漆喰で周囲をめぐらされている。[44] 一方、部屋Ⅰには、青いしみの痕跡はまったくない。

 部屋Ⅱでは、青いしみを見ることができるのは、ドアと[部屋の]中央の隔壁、および隔壁の下部、すなわち、パイプが隣の部屋にある部分に対応している場所だけである。したがって、部屋ⅢでHCNが使用されたのは、パイプが設置されてからのことであり、部屋ⅢbではまったくHCNは使われなかったという結論となる。鉄シアンの痕跡は非常に小さく、部屋Ⅱの特定の場所にだけ存在する。だから、それは、北の壁の外側の鉄シアンの融解に対応する鉄シアンの融解現象の結果であるに違いない。[45]

 部屋Ⅲaは、殺菌消毒施設が使用される前に部屋ⅠとⅡに分割されていた。だから、温風器は計画通りには設置されなかったのである。実際、部屋ⅠとⅡの東の壁には、部屋Ⅲの西の壁に見られるような温風の排出と換気のための丸い穴の痕跡はまったくない。

 以上のことから、これらの区画が犯罪目的のために使用されたとするプレサックの説は、まったく、最初から根拠のない前提にもとづいていることが分かる。プレサックの説はまた、純粋に技術的観点からしても、説明しがたい。二つの本物の青酸ガス室を殺人目的に改造するには、チクロンBの投入のための穴を天井に開けるだけでよいにもかかわらず、SS隊員は一酸化炭素を使ったガス処刑のための設備をなぜ設置しなくてはならなかったのであろうか。チクロンBを使った殺人ガス処刑が、定説どおり、アウシュヴィッツでは完璧であったとすれば、どうして、マイダネクでは、一酸化炭素が使われたのであろうか。

 プレサックは、部屋Ⅲaが二つの部屋に分割されてガス室として使われ、一つは小グループをガス処刑するために、もう一つは大グループをガス処刑するために使われたと説明しているが、この説明も技術的観点からすると、ナンセンスである。部屋の分割には何の利点もなく(125-175名の犠牲者はガスを浪費することなく、大きい方の部屋で簡単にガス処刑できるであろう)、逆に、ガス処刑の手順をもっと複雑にしてしまう。第一に、分割は、たがいに反対側にあるドアを開いたのちの、部屋Ⅰと部屋Ⅱの自然換気を妨げてしまうであろう。

 他方、部屋Ⅱはプレサック自身も認めざるを得なかったように、「死に部屋」となってしまった。部屋Ⅰの南壁のこの小さな窓は、追加的な、解決できない問題を産み出している。今日の状態では、窓は格子に覆われているが、気密の設備はない。[46] 収容所の解放後、スミルノフやポーランド・ソ連委員会が報告しているように、部屋の観察者側に窓ガラスだけがつけられていた。これが事実とすれば、窓ガラスはもともとは存在せず、窓にたんに押し込まれていたにすぎない。窓には固定枠や、窓ガラスを装着する器具のようなものはないからである。したがって、窓は気密ではないだけではなく、取り外すこともできるのである。さらに、壁は40cmほどの厚さしかないので、収容者は窓を簡単に壊すことができるであろう。とくに、格子は大きいので、そこから手を出すこともできる。最後に、このような窓が、殺人ガス処刑の犠牲者を観察するために作られているとしたならば、どうして、部屋Ⅱではなく、部屋Ⅰに必要であったのであろう。

 一酸化炭素が使用された可能性は除外できるであろう。しかし、部屋が二つに分割された理由を説明しなくてはならない。資料がないので、仮説を提示するしかないが、それは、プレサック説よりもはるかに説得力があるであろう。この二つのボンベのうち一つは二酸化炭素であるので、改造の日付を考えると、次のような説明の方が説得力を持つであろう。

 1942年7月から、収容所の「自然死亡率」は破滅的なものとなり、9月には、2431名の収容者が、10月には3210名の収容者が死んだ。[47] 当時存在していた「古い焼却棟」には、わずか二つの(オイル燃料炉)しかなく、増え続ける犠牲者には対処できなかった。また、石油も不足していた。焼却棟所長のSS-Oberscharführer エーリヒ・マスフェルトの報告によると、石油不足のために、同年11月に焼却棟を閉鎖しなくてはならなかった。[48] 他方、死体安置室BWⅩⅣ[49]は、外側11.50m×6.50m[50]のそんなに大きくない半地下室であり、一度に保管できる死体の数は限られていた。この絶望的な状況の中で、中央建設局は小屋41に隣接する殺菌消毒施設を二つの予備死体安置室に改造することを決定した。そのうちの一つ(部屋Ⅲ)は臨時の、もう一つ(部屋Ⅰ)は常設であった。二酸化炭素のボンベと結びついたパイプは、二つの部屋を希望の温度にまで[51]冷やすことを可能にした。[52] また二酸化炭素には、酸化を遅らす、したがって、死体の腐敗を遅らす特性がある。

 部屋Ⅲは、臨時の死体安置室として使う必要がないときには、もともとの目的――青酸ガスを使った殺菌消毒室としても使うことができた。強い青いしみ、すなわちこの部屋の壁には高い濃度の鉄シアンが存在していたことがこのように使われたことを証明している。

 部屋Ⅰの南の壁の小窓に関しては、これが部屋ⅠとⅢにパイプが設置されたときに作られたという証拠はまったくない。ここが死体安置室として使用されるのは、1944年1月に新しい焼却棟が開設されたことで、あまりなくなるのだから、新しい役割があてられたに違いない。部屋Ⅲは、チクロンBが不足していたことを考えると、温風器を使った温風殺菌消毒室として使われたに違いない。部屋Ⅰは、監視の必要な資材(例えば、武器)の倉庫として使われたのであろう。

 

b)部屋Ⅳ

 この場所について、プレサックはこう記している。

 

「もしこの部屋が殺人目的で使用されたとすると、二つの条件が必要である。収容者が簡単に壊すことができてしまうような小窓の除去、機械的な換気設備の設置である。害虫駆除のあとに、二つのドアを開けることは、毒ガスを小屋のほかの部分に送り込んでしまうような空気の流れを作り出してしまうに違いない。だから、シャワー室につながるドアは気密にされなくてはならない。しかし、換気が二つの上部の穴とドアとの間のスペースで行なわれたのであれば、それは、時間がかかることであり、非効率的であろう。もしも、二つのドアが閉じられていれば、部屋を換気することができるのは温風を送り込むことだけであろう(炉の上のファンを使って)。青酸ガスは空気よりも軽いので、大気中に拡散しながら、天井の二つの穴から出て行くことであろう。しばらくすると、残留HCNの濃度は、危険を伴わずに二つのドアを開くことができるまでに、下がることであろう。空気の流れは、ガスの最後の痕跡を取り除き、部屋を冷やすであろう。場所C[=部屋Ⅳ]は、それゆえ、脱衣室としても使われた。殺人目的に関しては、もしも、窓が取り除かれれば、収容所の中で『もっとも効率的な』ガス室となったことであろう。この問題は、この部屋が殺人ガス処刑のために使われたかどうかを決定するにあたってもっとも重要である。問題は解決されていないので、判断を保留しておかなくてはならない。」[53]

 

 前節で明らかにしたように、小屋41はたんに「シャワー浴室施設を持った小屋」として建設されており、1942年7月1日の青写真でもそのように呼ばれている。最終の状態の配置と小屋42のオリジナルの青写真(1942年3月31日の「ルブリン強制収容所の臨時害虫駆除施設」と比べれば、前者が後者と同じもの、すなわち殺菌消毒用の建物の中央部分として、もともと設計されており、それゆえに、(北から南まで)入り口―登録所―断髪室―脱衣室―シャワー浴室―脱衣室―出口という区画を持っていたと結論しなくてはならない。事実、二つの建物は、入り口・脱衣室―シャワー浴室―衣服の配分―ボイラー室―着衣室という4つの主要区画で構成されており、ほとんど同じ広さであった。

 1942年9月末か10月初頭、温風器を装備した青酸ガス室が小屋41の中に建てられた。温風器は東の壁につながっていた。10月22日、作業は終了し、この区画は「浴室を備えた害虫駆除室」と呼ばれた。以前には脱衣室となっていた区画は、大きな改造を受けることなく、ガス室として使われたが、それはここが臨時の施設であったことを証明している。

 現在でもそうであるように、部屋Ⅳの形は不規則である。二つの行き止まりの角を持ち、3方で閉じられており、それゆえに、換気することが難しい。この部屋は小屋42の断髪室とまったく同一であるが、その天井と北の壁の漆喰には大きな青いしみがある。この青いしみは、南の壁の漆喰にも見られるが、部屋Ⅳの壁の外側にある。もっと激しい青いしみは、東の壁の漆喰、入り口のところにある。

 このガス室は換気問題を抱えていたことであろう。第二節でも見たように、中央建設局は、換気煙突を屋根に設置することを決定し、この点に関して、上記のポーランドの会社Michael Ochnik Corporationに書き送っている。1942年11月18日のコスト見積もりは、コンクリートの天井に穴を開けて、0.75m×0.75m×1.70mの二つの煙突を建設すると述べている。しかし、1943年1月8日の発送状によると、ガス室の屋根に建設された煙突は一つだけであった。その煙突は、「コンクリートの天井の二つの穴」につながる「通風口」に「両側」からつながっていた。これらの穴が換気のための吸気・排気穴であることには疑いない。事実、ガス室の屋根の二つの穴は、温風通風パイプの拡張軸に沿って開けられているのである。

 このガス室は殺人目的ではなかった。第一に、Michael Ochnik Corporationからの上記の発送状にも述べられているように、煙突施設は、チクロンBの投入には使えなかったに違いない。HCNの丸薬は、コンクリートの天井の二つの平行した通風口には入らずに、そのまま床に落ちてしまったに違いないからである。第二に、南側のガス気密ドア(シャワー室に向かっているドア)はもちろん、外側から閉めることができるが、反対側のドアは内側から閉める。これが意味していることは、チクロンBの投入に責任を持つ殺菌消毒将校は、ガスマスクをつけて部屋に入り、北側のドアを閉めて、チクロンBを投入し、ついで、南側のドアを通って部屋から出て、途中でシャワー室から部屋を密閉しなくてはならなかったということである。殺人ガス処刑では、床には死体の山があったのだから、北側のドアを開くことは不可能であったに違いない。もしも、二つのドアの一つを開くことができたとしても、これは換気を大きく妨げたことであろう。

 今日、部屋の天井に見ることができる二つの穴は、約60cm×60cm(東側の穴)[54]40cm×40cm(西側の穴)[55]である。二つとも、厚い板の小さな煙突が作られていた木造のシャフトにつながっている。このシャフトは、部屋の屋根の、やはり木製のふたで閉められている。部屋の天井から測ってみると、煙突の高さは約1.15mである。現在の状態(大きさと資材の選択を除いて)は、1942年11月18日のコスト見積もり案に対応している。だから、実際の建設はのちに修正されたのであろう。事実、部屋の内部では、穴の周りの木製のシャフトが天井の漆喰のプロシアン・ブルーのしみを妨げているのである。漆喰の雪白色からも分かるとおり、漆喰はシャフトのまわりの多くの場所で新しくなっている。最後に、シャフト自体には、窓の木枠とはきわめて対照的に、青いしみの痕跡はまったく残っていない。[56] だから、シャフトが設置されたのは、チクロンBがこの部屋ではもはや使われなくなったときであることには疑問の余地はない。[57] 窓枠に青いしみが残っていることは、窓が収容所の解放前に存在していたことを示している。プレサックは、この部屋で大量殺人ガス処刑が行なわれたかどうかを決定するには、上記のような問題があると述べているが、それにははっきりと回答できるのである。


 



5と図6:マイダネク強制収容所の小屋41(図1参照)の害虫駆除施設の天井にある東の穴(左)と西の穴(右)(図1の地図参照)。 © C. Mattogno

 

 

7:マイダネク強制収容所小屋41(図1の地図参照)の害虫駆除施設の東側の壁の床の近くのパイプの周囲の青いしみ。 © C. Mattogno

8:マイダネク強制収容所小屋41(図1の地図参照)の害虫駆除施設の東側の壁の窓。© C. Mattogno

 

 前述した修正は、チクロンBの使用が放棄され、部屋Ⅳの害虫駆除作業が、東の壁の後ろに設置された温風器を使った温風で行なわれるようになったという過程で説明できるであろう。

 チクロンBは、とくに1943年夏以降に不足するようになったが、そのことがこの仮説を補強する。この時期、壊滅的なチフスがマイダネクで蔓延し、大量のチクロンBが「収容所の害虫駆除」のために必要であった(第5節参照)。上記の修正はこの時期(1943年夏から1944年初頭)に行なわれたに違いない。収容所に割り当てられた少量のチクロンBは、建物を害虫駆除するために必要であったので、青酸ガス室ⅢとⅣは温風殺菌消毒室に変えられたのである。

 部屋ⅢとⅢaの修正に関する上記の仮説は、ガス室Ⅳの設置の説明にもなる。毛皮・衣服作業場の建設計画用に設計された殺菌消毒施設の建設のあいだ、中央建設局は、二つの部屋を補足的な死体安置室として使うことを決定した。一つ(部屋Ⅰ)は常設の死体安置室として、もう一つは(部屋Ⅲ)臨時の死体安置室として計画された。[58] これは、オリジナルな部屋ⅢaがチクロンBを使った殺菌消毒のためにはもはや使われなかったことを意味する。これらの区画の喪失を埋め合わせるために、そして、当面使うことができなくなった部屋Ⅲの代わりをするために、もう一つの臨時の青酸ガス室が小屋41に設置された。その広さは大まか、部屋ⅢとⅢaの広さに対応している。技術的・行政的観点からすると、これらの建物は、たとえ、戦争捕虜収容所建設計画の中にあったとしても、毛皮・衣服作業場の一部であった。ガス室の設置を部屋41に選択することは合理的である。殺菌消毒された衣服は、オリジナルの殺菌消毒施設の上にある保護屋根の下の「清潔」区画に簡単に配置できるからである。殺菌消毒施設は1942年10月22日にすでに計画されており、1942年10月7日と10日の二つのコスト見積もりに言及されているが、それは4つのガス室からなり、最終的には、毛皮・衣服作業場に割り当てられた。

 

c)部屋ⅤとⅣ

 次のような事実を強調しておかなくてはならない。二つのチクロンBガス室(部屋Ⅰ-Ⅳが稼働する前に、最初のガス処刑のために使われたことになっている)が小屋28に設置されたという物的証拠はまったくないということである。

 

9:マイダネク強制収容所の新しい焼却棟のなかの殺人ガス室とされている部屋の天井の穴 © C. Mattogno

 

 ポーランド・ソ連委員会の記述、とくに委員会が描いた施設図[59]は、害虫駆除施設というよりも、洗濯場用の乾燥施設にはるかに似ている。小屋28の真中には、11.75m×6.00mの二つの部屋があった。この部屋の天井には、30㎝×30㎝の穴が開いていた。これらの穴を密閉することはできる。二つの部屋は、二つの反対側にある壁にあるドアをとおって、2m×12.15mの二つの気密室(Schleusen)に向かっていた。各気密室には、温風器があり、それは、問題の部屋につながっている。これらの気密室には二つのドアがあり、部屋の反対側のドアに向かい、7.50m×12.15mの二つの部屋、および、側壁のアクセスドアに向かっている。この建物は、二つの部屋の換気を非常に困難としたであろう。さらに、温風器は一つのパイプを介して、問題の部屋につながっている。このことは、温風器が空気の循環のためではなく、温風器からの温風を導入し、天井の穴から出していくために使われていたことを意味している。気密蓋は、温風器を使用できなかったときに、長い時間、部屋の温風を確保していくために使われた。例えば、夜に、衣服を乾燥させるときに。

 この仮説は、ポーランド・ソ連委員会が作成した図によっても部分的に支持される。そこでは、「ガス室ⅤとⅥ」があったとされる部屋は、乾燥設備を意味する「Suschilka」と呼ばれている。[60]

 プレサックは、これについては何も知らず、二つの部屋が害虫駆除室であったと考えているが、それが殺人目的に使われた可能性は排除している。彼は次のように記している。

 

「おそらく、これらの二つの改造された部屋はチクロンB(HCN)を使って個人の物品を害虫駆除するために使われたのであろう。洗濯場に類似していることは、この仮説を補足的に支持している。」[61]

 

 これらの部屋での殺人ガス処刑は、まったくありえない。最近、ポーランドの歴史家は、一つのガス室を備えていたとされるが、その正確な配置ですら決定できない小屋28の中のガス室に言及することを止めている。この点に関して、収容所に関する公式の歴史の中で、マルシャレクは次のように書いている。

 

「マイダネクでチクロンBを使うために建設されたコンクリートのガス室は、1942年10月に稼動し始めた。このガスは、アウシュヴィッツで蓄積された経験を踏まえて、臨時ガス室でソ連軍捕虜を殺害するために使われていた。」[62]

 

 収容者の「直接調査」を研究したチェスラフ・ライカは、マイダネクに関する浩瀚な著作でこの話を繰り返している。

 

「コンクリートの[ガス]室が建設の完了――10月のことである――を待っているとき、チクロンBを使った収容者の処刑が、浴室(正確には洗濯場)の近くの木造のガス室と、区域Ⅰの真ん中に設置された小屋の中で行なわれた。その場所はいわゆる小さな焼却棟があったところであった。」[63]

 

 マイダネクに最初にチクロンBが搬送されたのは1942年7月30日であった――チクロンBの搬送問題は第5節で扱う――ので、問題のガス室が稼動したのは、8月初頭ではないとしても、9月か10月のことであったろう。

 しかし、1942年10月の中央建設局の書簡には、チクロンBを使った殺菌消毒室であったはずであるこのガス室はまったく言及されていない。すなわち、このときには、このガス室は存在していなかったのである。

 

d)ガス室Ⅶ

 プレサックは次のように記している。

 

「[マイダネク]博物館長は、このガス室が使われたのはごくごく少なかったと記している。率直に言えば、これはまったく使われなかったということである。このフィクションは、すべての焼却棟には(アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟のように)ガス室がなくてはならないという迷信への攻撃を避けるために維持されている。…もしも、この部屋でチクロンBを使って人々を殺害しようとするならば、建物の中の、検死室のあいだにあるスペース、廊下、配置室を人工的に換気しなくてはならないであろうが、そのようなものが存在した痕跡はまったくない。通風による自然換気は、焼却棟を計り知れないほど長い間隔離しておかなくてはならないであろう。」[64]

 

 この指摘は驚くべきものであり、反論する余地がない。このことは、施設の検証後にポーランド・ソ連委員会が作成した焼却棟の図面からも、[犯罪現場]の現場検証からも分かるであろう。事実、「ガス室」(komora gazowa)として知られる部屋は、検死室と死体安置室のあいだにあるのである。

 私としては次のような考察を付け加えておきたい。

 a. 問題の部屋の壁には、青いしみの痕跡がまったくない。

 b. ポーランド・ソ連委員会は、26cm×26cmの屋根に開けられた穴[65]については言及していない。事実、この穴はあとで粗雑に開けられたものである。補強の鉄筋を切断してもおらず、部屋Ⅳのケースと同様に、木製のシャフトも作っていない。

 c. 死体安置室の隣の壁には二つののぞき窓がある。それを閉める方法がなく、ポーランド・ソ連委員会は何も言及していない。すなわち、この二つの窓はオリジナルな状態のままである。だから、ガス作業を行なえば、ガスは死体安置室と炉室に侵入してしまうであろう。

 

4. 殺人ガス処刑:告発の起源

 これまで述べてきたように、問題の施設は、大量ガス処刑には技術的に不適当であり、したがって、このような大量絶滅は起こらなかったといえる。次に、マイダネク強制収容所では大量ガス処刑が行なわれたという告発の起源を検証しなくてはならない。

 最初の詳しい目撃証言が登場したのは1944年であり、その作者は明らかではない。公表したのはシルバーシャインであった。ここでの議論にもっとも関係があり、興味を引くのは以下の一節である。

 

炉室建物(強調――筆者)は、第一番目の小屋と第二番目の小屋のあいだの地域にあり、10mである。

 外から見ると、工場の煙突のような二つの大きな煙突がある点を除くと、これらの建物は普通の建物であった。

 この建物は三つの部分に分かれており、そのおのおのが、ほぼ完全に密閉されていた。第一の部分は脱衣室であった(図面ではWardrobe)。第二の部分は気密にされていた。ここは、ガス実験が行なわれた場所であった(図面では「ガス室」)。第三の部屋には、三つの巨大な炉があった。この建物は区域1と2のあいだにあった。…

 老人と病人はすぐに炉室のある建物に入るように命令された。第一の部屋で、彼らは服を脱ぐように命令された。第二の部屋で、彼らは2分間で窒息死した。彼らはその後で、第二の部屋から炉に運ばれた。炎は地下から燃え上がっており、炉自体は燃えていなかった。しかし、それは、2000度の熱風を供給されていた。死体は炉の中に投げ込まれた。燃え上がるような高温が、液体と湿気を死体から完全に吸いだした。いくつかの水ぶくれだけが残っていたが、それは非常に乾燥していたので、はじけた。その後、特別トラックが残余物を町の外に運び出し、あらかじめ掘られていた埋葬地に運んでいった。

 1942年中、数千のユダヤ人が毎日ガス室で殺された。新たな集団が、毎週運ばれてきた。そのようなことがまさに、現在まで続いている。」[66]

 

 この目撃報告には、マイダネクの図版が付けられている。この図版を、歴史的・建築学的知識と照らし合わせてみると、マイダネクでの「殺人ガス処刑」の起源にまでさかのぼることができるであろう。

 この図版は、「浴室と殺菌消毒施設Ⅱ」、「脱衣室」、「衣服置き場」(衣服の受け取り用)、「浴室」(シャワー)、「収容者の衣服の配布場」(新しい衣服の配布用)を完備した建物42の詳しい図面からなっている。しかし、報告の日付は1943年にまでさかのぼるにもかかわらず、そこには、「浴室と殺菌消毒施設Ⅰ」――建物41の記載はまったくない。そこは、ポーランド・ソ連委員会によるとすべての絶滅計画の中心であり、絶滅はすでに1942年10月に始まっていたというのに。

 絶滅施設自体に関しては、目撃者は、さまざまな建物の様子を張り合わせている。それらの建物はたしかに実在していたが、その時期や場所も異なっているのであるが。「ガス室」はたんに建物28であり、そのなかに、目撃証人は、建物XIIaにある殺菌消毒室Ⅲを、あるいは、建物41のガス室を(誤って)置いてしまっている。二つとも、温風器を備えていた。建物28――そこには1944年7月には乾燥施設だけが存在していた――にはもっと前から、チクロンBを使った害虫駆除施設が存在していたと仮定しても、そのことによって、これが焼却棟から約110m離れていたこと、洗濯場が二つの建物のあいだにあったという事実を変えることはできない。

 焼却炉の誤った記述は、ちょっと見ただけではきわめて難解であるが、それはちょっと見ただけの場合である。鍵となるセンテンスを取り上げよう。

 

「炎は地下から燃え上がっており、炉自体は燃えていなかった。しかし、それは、2000度の熱風を供給されていた。」

 

 事実上、この記述が言及しているのは焼却炉ではなく、建物28の石炭燃料の温風器と害虫駆除室ⅢとⅣである。第二節で見たように、これらの施設は石炭炉であり、炉は床の下にある。だから、「炎は地下から燃え上がっており」というのは正しい。燃焼は、炉の上部では行なわれなかったのだから、「炉自体は燃えていなかった」、その代わりに、「熱風を供給されていた」というのも正しい。証言は、温度を2000℃としているが、それは、温風室だけではなく、焼却棟としても高すぎる。[67] 報告者があげている犠牲者の数1日に2000名、1943年末までに200万の犠牲者という数は[68]、もちろん、純粋な虐殺宣伝である。

 スミルノフ報告はとくに重要である。解放直後にマイダネクを訪問した匿名の筆者は収容者と話すことができ、収容者は収容所の話と、その施設の機能を説明したからである。スミルノフ報告は目撃者の話にもとづいており、1944年7月と8月の時点で収容者のあいだで通用していた収容所の歴史の「公式」バージョンに対応している、それゆえ、ポーランド・ソ連委員会バージョンよりも先立っているものである。それは、いくつかの点で、その後確立され、今では、強制的となっているバージョンから逸脱している。スミルノフ報告は、その後すぐに忘れ去られてしまった絶滅施設について言及しているが、旧焼却棟のなかの「ガス室」についてはまったく言及しておらず、ガス処刑の場所を誤って建物41の隣の殺菌消毒施設の中としている。ここで描かれている殺戮技術はかなり特異である。

 

「小窓はどこに向かっているのか。この解答を発見するために、ドアを開いて、部屋を立ち去る。部屋の隣には別の小さなコンクリートの部屋がある。小窓はここに向かっている。ここには、電灯とスイッチがある。小窓から外を眺めると、最初の部屋の内部前景を見ることができる。床の上には、丸い、密閉されたチクロンBの缶がいくつかある。そこには、『東部地区での特別な使用のために』と書かれている。[69] この缶の中身は、部屋が満杯となると、パイプを介して隣の部屋に送られた。

 裸の人々は隣と肌が触れ合うように立っていたので、多くのスペースをとらなかった。250名が40㎡のスペースに追い込まれた。なかに追い立てられたのである。鉄のドアが閉じられ、気密状態を作り出すために、隙間に粘土が埋められた。ガスマスクをつけた特別チームが、丸い缶の中身であるチクロンBをパイプを介して、隣の部屋に注入した。しかし、それは酸素に触れると、すぐに、毒ガスを放出し始め、同時に、人体の重要部分に作用し始めた。[70] 作業を指示していたSS隊員が、電灯のスイッチをいれた。SS隊員は、小窓から、窒息の過程すべてを観察していた。それは、さまざまな目撃者の報告を集めてみると、2-10分続いた。SS隊員は、小窓から、安全に、死の苦悶にゆがんだ顔、ガスの漸次的効果などすべてを見ることができた。処刑人のためののぞき穴は、右側の目線のところにあった。犠牲者が死んでも、崩れ落ちたわけではないので、観察者は目線を落とす必要がなかった。ガス室は実際には、満杯であったので、死者は身動きもせず立っていた」。[71](強調――筆者)

 

 この殺戮方法の記述は、技術的観点からすればまったくナンセンスである。そのことは、マイダネクの収容者が殺人ガス処刑を見たことがなかったことを証明している。目撃者は、ガス室の屋根の上に、ガスマスクをつけて、手にチクロンBの缶を持っていたSS隊員が存在していたことをスミルノフに話していない。犠牲者が、ガスパイプ施設をもつ二つの区画で一酸化炭素によって殺されたことを話していない。プレサックが的確にも指摘しているように、スミルノフが発見したチクロンBの缶は、缶の中身がパイプを介して注入されたかの印象を作り出すために、部屋ⅠとⅢの前の横室に置かれたのである。収容者たちが述べている手順は、目撃者が大量ガス処刑の現場にはいなかったことを証明している。大量ガス処刑の噂が収容所のあいだに通用していたこと、収容者が、自分たちを抑圧した人々に復讐するために、これらの噂に信憑性のオーラを提供したこと、しかし、実際には、彼らの供述は、殺人ガス処刑がまったく起こらなかったことを証明していることにはまったく疑いがない。

 スミルノフが部屋Ⅳに関しては、何も述べていないことを注目すべきである。収容者がここを殺人ガス室とみなしていなかったことは明らかである。

 のちの目撃証言は非常に曖昧であり、矛盾をはらんでいるので、それについては、当面、スキップすることができる。さらに注目すべきなのは、長い間マイダネク記念館館長であったマルシャレクが、収容所の歴史に関する自著の中でわずか2行しかガス処刑に触れていないことである。事実、彼は、マイダネクでのガス処刑の手順について、アウシュヴィッツでのSS隊員ペリー・ブロードの目撃証言を引用しているだけなのである。

 

「ガス処刑の技術は、アウシュヴィッツ収容所政治部員Perry[sic] Broadによって描かれている。同じような技術がマイダネクで使われた。」[72]

 

 これが記念館館長の記述なのである。

 

5. マイダネク強制収容所へのチクロンBの配送

 ドイツでは、チクロンBを製造していたのは、デッサウのDessauer Werken für Zucker und Chemische Industrie A.G.とケルンの Kaliwerke A.G. であった。[73] 配布を統制していたのは、デゲシュ社であった。デゲシュ社はパテントと製造ライセンスを持っており、本当の製造社であった。デゲシュ社は、直接製品を生産せず、むしろ二つの主要な代表会社Heerdt und Lingerl GmbH (Heli), a Frankfurt corporation, and Tesch und Stabenow, Internationale Gesellschaft für Schädlungsbekämpfung (Testa), a Hamburg corporationを介して製造していた。二つの会社はマーケットを二分していた。ヘリはエルベの西側、テシュはエルベの東側を担当し、ズデーテン地方、総督府、東部帝国領、デンマーク、ノルウェー、フィンランドのスカンディナビア諸国はテシュ社の独占であった。マイダネク強制収容所は、総督府領にあったので、チクロンをテシュ社から受け取っていた。

 

表Ⅰ: チクロンBの発注とマイダネク強制収容所への搬入

発注

搬入

日付

缶の数

[kg]

時期

缶の数

ss [kg]

25.07.1942/

22.08.1942-

1,474

2,211

30.07.1942

20.08.1942

September 1942

360

360

754

540

540

1,131

Sub-Total

1,474

2,211

22.05.1943/

08.06.1943

3,000

4,500

16.07.1943

September 1943

October 1943 -
June 1944

342

666

 

1,992

513

999

 

2,988

Sub-Total

3,000

4,500

19.06.1944/

03.07.1944

(500)

(250)

July 1944

(500)

(250)

合計:

4,974

6,961

 

4,974

6,961

 

 チクロンBの搬入についての、非常に詳しい書簡が、収容所管理局とテシュ社とチクロンBの配布に関係するSS機関とのあいだでかわされている。この書簡[74]はアデラ・トニアクによって研究されてきた。トニアクは自分の研究[75]の中で、書簡の交換についての60の文書のうち、37を再掲載している。彼女は、ルブリン収容所に搬入されたチクロンBの総量は7711kgと計算しているが[76]、この計算には二つの誤りがある。表ⅠはチクロンBの発注と搬入をまとめたものである。

 文書では、ルブリン収容所の管理局がチクロンBを発注したのは、殺菌消毒目的以外ではありえないのに、トニアクはまったく根拠のない歴史的議論を引用することで、殺戮論に固執しようとしている。76 詳しくは立ち入らないが、収容所管理局とテシュ・シュタベノフ社のあいだでの往復書簡は、何回も、「疫病の危険」、「収容者バラックと衣服の殺菌消毒」、「完全な殺菌消毒」、「殺菌消毒作業」、「収容所の殺菌消毒」、「殺菌消毒ガス」(すなわちチクロンB)について言及していることを強調しておかなくてはならない。[77] トニアクでさえも、破滅的なチフス疫病が何回もマイダネクを襲ったという事実を隠すことはできないし、チクロンBがチフスを抑えるのにもっとも有効な手段であることを認めているので、チフスの搬入がシラミの絶滅以外の目的に使われたという推定には、まったく根拠がない。[78]

チクロンBの搬入に犯罪的な目的を与えようとする試みは、数十年前に流行したが、今では古臭くなってしまった解釈方法である。しかし、この解釈はプレサックによってまったく覆されてしまっているのである。プレサックによれば、アウシュヴィッツに搬入されたチクロンBの97-98%は殺菌消毒目的で使われたのであり、収容者の殺人ガス処刑に使われたのはわずか、2-3%であったというからである。[79]

 事実、アウシュヴィッツに搬入されたチクロンBのうち、2-3%だけで、これまで伝えられてきた犠牲者をガス処刑するには十分であったろう。この意味で、プレサックの計算は正しい。しかし、搬入されたチクロンBうち2-3%という数字は、統計学的には非常に少ない数字なので、搬入されたチクロンBの総量だけでは、殺人ガス処刑を証明できないのである。そして、このことはマイダネクにもあてはまる。[80]

 

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[1] この論文は、マットーニョとグラーフの著作KL Majdanek. Eine historisch und technische Studieの短縮・修正版である。

[2] この論文は、私が二回目にルブリンを訪れた(1997年7月にグラーフとともに)ときに集めた資料の結果であり、私独自の結論を引き出しており、それを拡大し、ルドルフの研究を参照せずに、必要な場合には修正している。そうすることで、剽窃とか借用をおかしていない。この論文は、私独自の調査から生み出されたものであり、その後、私の許可を得て、ルドルフによって、評価されてきた。ルドルフ報告は、初期のロイヒター報告を超えているがゆえに、有名なロイヒター報告はここでは詳しく扱わない。この報告は、最初に公表されたとき以降の発見に照らし合わせて、その大半が書き換えられてきた。(Fred A. Leuchter, An Engineering Report on the Alleged Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland, Fred A. Leuchter Associates, Boston, Massachusetts USA,1988, prepared for Ernst Zündel). この論文に掲載されている写真は私自身が撮影したものである。

[3] 資料1はポーランドソ連委員会が用意したガス室Ⅰ-Ⅳである。典拠は、Gosudarstvjennyj Archiv Rossiskoj Federatsii, Moscow (henceforth GARF); 7021-107-9, p. 251である。

[4] 呼称のイタリックは原資料のままである。

[5] 玄関(6.7㎡)と内室(28.2㎡)を除いて。

[6] GARF; RF, 7021-107-9, 229-243

[7] Józef Marszałek, Geneza I początki obozu koncentracyjnego na Majdanku, in Zeszyty Majdanka (Magazine of Majdanek, hereinafter ZM) I, 1965, "Kriegsgefangenenlager Lublin" (POW camp Lublin), camp map of 23 March 1942 (table without page numbers).

[8] Ibid., "Bekleidungswerk der Waffen-SS Dachau Außenstelle Lublin", March 1942 (table without page numbers).

[9] "Entlausung und Krematorium" (Delousing and crematorium), Drawing J. No. 9082 of the H. Kori corporation, Berlin, October 23, 1941. Archivum Panstwowego Muzeum na Majdanku (hereinafter APMM), sygn. VI-9a, vol. I, p. 9.

[10] APMM, sygn. 9a, volume I.

[11] 殺菌消毒は、化学物質を含んだ水によって行なわれた。See Walter Dötzer, Entkeimung, Entseuchung, und Entwesung, working instructions for clinics and laboratory of the Hygiene Institute of the Waffen-SS, Berlin. Published by the SS Standartenführer Dozent Dr. J. Mrugowsky. Verlag von Urban und Schwarzenberg, Berlin and Vienna 1943, p. 48 ff.

[12] Zentralbauleitung der Waffen-SS u. Polizei Lublin/GG., Prov. Entlausungsanlage K.G.L. Lublin, March 31, 1942, Wojewodzkie Archivum Panstwowe w Lublinie (hereinafter WAPL), Zentralbauleitung, 41, p. 5

[13] このバラックには鍵がかけられているので、好奇心のある人だけが、窓から眺めることができる。

[14] WAPL, Zentralbauleitung, 8, p . 3.

[15] Amt C/V, Zentralbauinspektion

[16] WAPL, Zentralbauleitung, 141, p. 5.

[17] Ibid., p. 2.

[18] Ibid., p. 5.

[19] Ibid., pp. 7 and 8.

[20] Bauleitung des KGL Lublin, Entwesungsanlage Bauwerk XIIA, Lublin, August 1942. WAPL, Zentralbauleitung, 41, p. 4.

[21] その他の部屋の大きさの変化した。ポーランドソ連委員会は、9.70m×3.70mとしている。

[22] Józef Marszałek, "Budowa obozu koncentracyjnego na Majdanku w latach 1942-1944", in ZM, IV, 1969, p. 53, footnote 117.

[23] 訳者注:スチーム・ベルトは、真空放出システムの一部であり、圧縮された液体が、スチームによってとりまかれたチューブの中を循環する。カランドリアとも呼ばれる。

[24] Instytut Technicki Cieplej, Ekspertyza dotycząca konstrukcji i przeznaczenia piecow zainstalowanych przy komorach gazowzch w Obozie na Majdanku w Lublinie, Lodz 1968, APMM.

[25] Tsentr Chranjenija Istoriko-dokumental'nich Kollektsii, Moscow (hereafter TCIDK), 502-1-332, p. 46.

[26] WAPL, Zentralbauleitung, 8, p. 22.

[27] Ibid., 145, p. 13

[28] "Züge" in German

[29] WAPL, Zentralbauleitung, 8, p. 14

[30] Ibid., pp. 1, 2.

[31] Ibid., pp. 5, 6.

[32] Ibid., sections 1, 3, 4, and 7

[33] Jean-Claude Pressac, "Les Carences et Incoherences du Rapport Leuchter", in Jour J, December 1988. Majdanek is discussed on pages vii-x.

[34] Ibid., pp. vii, viii.

[35] プレサックの東西方向は間違っている

[36] J.-C. Pressac, op. cit. (note 33), pp. vii-ix.

[37] 図2参照

[38] 図3参照

[39] Constantin Simonov, Il campo dello sterminio, Foreign Language Publication House, Moscow 1944, p. 8.

[40] 他のボンベの記載を読むことはできなかった。

[41] もっとも原始的な記述は、焼却炉についての技術報告である。コリ社の5つ石炭燃料炉、The most primitive deception is the technical report on the crematory ovens: the coke-fueled Kori five-muffle ovens, by means of a completely crack-brained series of calculations, are said to have possessed a crematory capacity of 1,920 bodies per day, nineteen times the actual capacity: GARF, RF, 7021-107-9 pp. 245-249.

[42] Captain Dr. Attilio Izzo, Guerra Chimica e Difesa Antigas, Editore Ulrico Hoepli, Milan 1935, p. 183.

[43] Ferdinand Flury and Franz Zernik, Schädliche Gase, Dämpfe, Nebel, Rauch und Staubarten, Verlag von Julius Springer, Berlin 1931, p. 617.

[44] 図5参照。

[45] ビルケナウのBW5aと5bの殺菌消毒室の外壁には、この現象をもっと如実に見ることができる。

[46] 図4参照。

[47] Księga więźniów zmarłych na Majdanku w 1942, APMM, sygn. I-d-19; więźniów zmarłych w obozie na Majdanku, AGKBZH [Archivum Glownej Komisij Badania Zbrodni Hitlerowskich w Polsce] 626 z/OL3. 10月の数字は、減法を使って出した。マイダネク収容所の死亡者数の問題は、注2の著作の第4章で扱われている。

[48] Anna Zmijewska-Wiesniewska, "Zeznanie szefa krematorium Ericha Musfeldta", in ZM, I, 1965, p. 140.

[49] 1942年7月1日、この建物は70%完成していた。WAPL, Zentralbauleitung, 8, p. 3.

[50] These data have been taken from the corresponding blueprints: K.G.L. Lublin, Leichenhalle, Bauwerk XIV, scale 1:100. WAPL, Zentralbauleitung, 47, p. 14.

[51] 部屋Ⅲのドアには、温度計を設置するための穴がある。

[52] 液体圧縮ガスの膨張は、室温を下げることがよく知られている。

[53] Pressac, op. cit. (note 33), p. ix

[54] 図6参照

[55] 図7参照

[56] 図8参照

[57] ルドルフが協調しているように、鉄シアンはとくに、湿った壁に形成される。 (G. Rudolf, E. Gauss, "Die Gaskammern von Auschwitz und Majdanek", op. cit. (note 2), p. 263), see his contribution on the Auschwitz gas chambers in this volume.

[58] これらの二つの焼却棟は、新しい焼却棟の建設によって当然にも余計となった。

[59] GARF, RF 7021-107-9, p. 251.

[60] Ibid., p. 115.

[61] Pressac, op. cit. (note 33), p. vii

[62] Józef Marszałek, Majdanek, the Concentration Camp in Lublin, Interpress, Warsaw 1986, p. 140.

[63] Czesław Rajca, "Eksteminacja bezposrednia" in Tadeusz Mencl (ed.): Majdanek 1941-1944, Wydawnictwo Lubelskie, Lublin 1991, p. 270

[64] Pressac, op. cit. (note 33), p. ix

[65] 図9参照

[66] A. Silberschein, Die Judenausrottung in Polen, Fünfte Serie; "Das K.Z. Lager Lublin", manuscript, Geneva 1944, pp. 14-16.

[67] In this regard, see our study drawn up in cooperation with Dr. Franco Deana "The Crematorium Ovens of Auschwitz Birkenau", in this volume

[68] Silberschein, op. cit. (note 66), p. 16

[69] 実際には、このようなラベルのチクロンBの缶は存在しない。

[70] チクロンBは、圧縮ガスではなく、石膏にしみこんだ液体HCNであるので、パイプの中を通ることはできない。

[71] Simonov, op. cit. (note 39), 8, 9.

[72] J. Marszałek, Majdanek, op. cit. (note 62), p. 141.

[73] I.G. Farben produced only the warning substance, bromacetic acid methyl ester, as well as the stabilizer, chlor carbonic acid methyl ether

[74] APMM, sygn. I, d. 2, vol. I.

[75] Adela Toniak, "Korespondencja w sprawie dostawy cyklonu B do obozu na Majdanku" in ZM, II, 1967, p. 129-170.

[76] Ibid., p. 137

[77] 問題の文書は、注1に引用されているグラーフとマットーニョの著作で詳しく検証されている。

[78] 唯一の「犯罪の痕跡」はいわゆる「カモフラージュ表現」である。

[79] J.-C. Pressac, Technique and Operation of the Gas Chambers. The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989, p. 1988. Pressac expresses the same opinion in his second book (German edition: Die Krematorien von Auschwitz, Piper Verlag, Munich 1994). The passage in question appears on page 58 of that edition.

[80] 致死量濃度0.3g/㎥の10倍の濃度のHCNを仮定すると、部屋Ⅲでの1500g缶一つで、3000名を殺害することができる。これは次のように算出される。部屋Ⅲの面積は約35㎡であり、容積は約70㎥である。プレサックに従って、ガス処刑での最大の犠牲者数を350名とすると、そして、致死量濃度0.3g/㎥の10倍の濃度のHCNを仮定すると、一回のガス処刑に必要なHCNの量は、次のようになる。

     有効容積:約50㎥(犠牲者の身体が約20㎥)

     HCN濃度:0.3×10=3g/㎥

     必要なHCNの量:3×50=150g

 


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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