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試訳:フリツォフ・メイヤーの新説批判

――「ブンカー」主犯説とガス処刑犠牲者356000名説をめぐって――

 

カルロ・マットーニョ

 

歴史的修正主義研究会試訳

最終修正日:2004121

 

 

20025月、ハンブルクのDer Spiegel編集長であったフリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)は、「アウシュヴィッツの犠牲者数」と題する論文を、研究誌Octeuropaに発表した。その中で、彼は、殺人ガス処刑説を擁護しつつも、ホロコースト正史とは異なり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所で大量ガス処刑が行なわれたのは、焼却棟Ⅰ-Ⅴではなく、収容所外の二つの「ブンカー」であった、大量ガス処刑の犠牲者は356000名であったという新しい説を展開した。

このメイヤーの新説に対して、イタリアの修正主義者マットーニョは、実証的な鋭い批判を加えると同時に、メイヤーの新説は修正主義者の研究によって、ホロコースト正史がまさに崩壊寸前であることを立証していると結論した。

本研究会は、研究目的で、このメイヤー論文(Fritjof Meyer, Die Zahl der Opfer von Auschwitzの骨子を紹介するとともに、マットーニョの批判(Carlo Mattogno, Auschwitz. Fritjof Meyer's New Revisionsを試訳することとした。

誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

・メイヤー論文

online: http://www.fpp.co.uk/Auschwitz/Osteuropa/Fritjof_Meyer1.html

http://www.fpp.co.uk/Auschwitz/Osteuropa/Fritjof_Meyer2.html

・マットーニョ論文

online: http://vho.org/tr/2003/1/Mattogno30-37.html

 

メイヤー論文の骨子(歴史的修正主義研究会編・試訳・マーカー

 

<アウシュヴィッツでの犠牲者数=50万>

「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力についての重要文書が発見された。同時に、焼却棟の稼働時間に関する収容所長[ルドルフ・ヘス]の供述が明るみに出た。アウシュヴィッツ収容所に移送された人々についての、既存であるが、これまで無視されてきた文書記録にもとづいて、アウシュヴィッツで殺された人々の数をもっと正確に計算することができる。あらかじめ言っておくと、50万名が虐殺の犠牲者となったのである。」

 

<大量ガス処刑現場=二つの「ブンカー」>

「ここでは、現存の証拠、すなわち、もともとはそのようには作られていなかった建物に(投入口、ガス検知装置など)をつけることによって「ガス室(Vergasungskeller)」に改造することに関する文書資料、ならびに、それに関連する目撃証言は、焼却棟の完成――1943年初夏――ののちに、死体安置室を大量殺戮のために利用できるかどうかを調べるために、19433/4月に行なわれた実験のことを指し示していることについては、立ち入ることはできない。

 この実験は失敗したにちがいない。換気が効果的ではなかったし、予想された大量の犠牲者が次の11ヶ月にはやってこなかったからである。実際に殺戮が行なわれたのはおもに、収容所の外にある農家を改造した二つの小屋であった。その一つ「白い家」もしくは「ブンカーⅠ」の土台が最近発見されている。」

 

<ビルケナウの焼却棟で焼却された死体の数=313899体>

「結論は単純である。焼却棟ⅠとⅡの971日の稼動日には、262170体が焼却された。焼却棟ⅢとⅣの359日の稼動日には51696体が焼却された。合計313899体がビルケナウでは焼却されたのである。」

 

<チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』批判>

「ダヌータ・チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、ハンガリーからの移送者を除外した735000名がこの犯罪現場に移送されてきた。そのうち、15000名がソ連軍捕虜であり、残りの720000名のうち、チェクによると、346000名が登録囚人であり、374000名が非登録囚人であった。チェクは、これらの非登録囚人がガス室で殺されたと断定しているが、そのことを立証する文書資料的証拠はまったく存在しない。」

 

315000名のガス処刑=二つの「ブンカー」>

315000名の非登録囚人が「非生産的」としてガス処刑された(その他の手段で殺された人々の数は、ガス処刑に選別された登録囚人の数に加えるべきである)ということを受け入れれば、この目的のためには、ガス室に改造された二つの農家だけで十分であったことになる1944年初夏のハンガリーからの移送者についてだけは、別の絶滅施設が必要であったであろう。おそらくそれは、停止していた焼却棟Ⅲかガス車であったであろう。ガス車は、特別行動部隊によってソ連領に、そして、ヴァルテランドの絶滅センターであるチェルムノに、ヒムラー、そしてもちろんヒトラーの許可を得た上で、管区指導者グライザーによって配置されていた。」

 

<アウシュヴィッツでの犠牲者数の結論>

こうしたことを考慮すると、50万名がアウシュヴィッツで殺され、そのうち、356000名がガス処刑されたという結論となる。」

 

<抑圧されてきた犠牲者数の検証>

「近年、アウシュヴィッツの犠牲者数についての議論は様々な所で行なわれるようになったが、結論をだすには程遠い状態である。APMOの所長ヴァツラフ・ドルゴボルスキ(Wáclaw Dlugoborski)は、19989月、『フランクフルター・アレゲマイネ・ツァイトゥング』紙上で、死亡者数について次のように説明している。『終戦直後、ソ連の調査委員会は、調査することなく400万人という数字を確定した。この見積もりが正確であるかについては当初から疑問が生じていたけれども、それはドグマになっていった1989年まで、東ヨーロッパ諸国では、400万人という犠牲者の数に疑問を呈することは禁止されていた。この数字に疑問を呈したアウシュヴィッツ・メモリアルの職員は、懲罰委員会にかけると脅迫された。』」

 

 

 

マットーニョの批判:アウシュヴィッツ。フリツォフ・メイヤーによる新しい修正

 

1. 背景

 1993年、プレサックはアウシュヴィッツについての二番目の研究書を発表したが[1]、それは、最初の研究書[2]よりもいっそう多くの穀物を修正主義者の製粉場に提供してくれた。

 このために、プレサックの二番目の研究書は、アウシュヴィッツ博物館歴史部長ピペルの手になる辛辣な長文の書評[3]の中で、酷評された。ピペルの批判は、ホロコースト正史派によるプレサックの破門のようなものであった。この結果、アメリカとヨーロッパのホロコースト・ロビーは、このフランス人研究者を閉門蟄居処分とし、それは今日まで続いている。アーヴィング・リップシュタット名誉毀損裁判で、弁護側が、アウシュヴィッツの絶滅論についての正史を擁護する証人として、プレサックを選ばなかったのは偶然ではない。その代わりに、彼らはファン・ペルトを選んだ。しかし、ペルトは、歴史の知識、方法論、批判能力の面でプレサックよりもはるかに劣っている。

 ホロコースト物語の提唱者たちは、数十年にわたる努力を積み重ねて、脆弱な証拠を苦心して敷き詰めてきたが、プレサックははからずも、その脆弱な証拠を打ち砕いてしまった。ホロコースト正史派にとっての、プレサックの研究の最大の罪はここにある。ホロコースト正史は、1941年春、アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスが彼の収容所にいるヨーロッパ・ユダヤ人全員を絶滅するようにという命令をヒムラーから受け取ったという説を、それまで支持してきたし(かなりの程度、今でも支持し続けている)。この説によると、アウシュヴィッツは、絶滅政策を実行するために、ビルケナウに設計・建設された焼却棟を持った「絶滅収容所」に改造されたという。

 しかし、プレサックはそれとはまったく逆のことを立証してしまった。すなわち、焼却棟は普通の衛生施設として計画・設計されたということを立証してしまった。そして、プレサックは、きわめて胡散臭い「犯罪の痕跡」にもとづいて、194211月末頃に、焼却棟は絶滅施設に改造されたと述べたのである。

 ホロコースト正史派にとって許すことのできない、プレサックの罪は、目撃証言を文書資料的証拠よりも低い位置におとしめたことである。もっとも、彼自身がこの原則に反してしまっていることがたびたびあるが。さらに、もっと悪いことに、プレサックは修正主義者の科学的方法論を受け入れてしまったのである。

 1994年、私は、プレサックの二番目の著作に対する書評[4]を次のように締めくくった。

 

1979221日の『ル・モンド』紙に掲載された論文の中で、34名のフランス人歴史家たちは彼らの声明を、次のような定式で終えている。

 

『われわれは、このような大量殺人が技術的にどのように可能であったのか問うてはならない。それは起こったから、技術的に可能であったのである。このことが、このテーマに関するあらゆる歴史的研究の出発点となるべきである。』

 

 しかし、プレサックは、この研究を引き受ける技術的な能力を持っていなかったにもかかわらず、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉といわゆる殺人ガス室を技術的に研究しようとした。

だが、プレサックは修正主義者の方法的な原則を受け入れなければならなかった。その原則によれば、証言と技術が一致していない場合には、技術の方を採用しなくてはならないというものである。彼は、(彼が狡猾に水増ししている)焼却炉の能力とは一致していないために、いわゆる殺人ガス処刑の犠牲者の数を減らすことによって、この原則を採用した。彼はこのようにして、伝統的な歴史学のなかでは抑え切れないような情報が外に漏れ出していく出口を開いてしまった。技術は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量絶滅が物質的に不可能であること明らかにしているからである。だからプレサックが技術的なスタンスで一貫していたいとするならば、彼に残されたことはこの結論を受け入れることである。もし受け入れないとすれば、いわゆる大量殺戮が技術的に可能であったかと質問してはならないというフランスの歴史家たちの声明を受け入れることによって、後退するしかない。

 

 このようなディレンマに直面して、ホロコースト史家たちはさまざまに反応した。ペルトのような人々は、撤退のラッパを鳴らして、科学の光が届くことのない目撃証言という薄暗い沼地に塹壕を掘って、身をひそめた[5]。ジョン・ツィンマーマンのような人々は、科学と歴史学の諸原則を破り捨てて、厚顔無恥な嘘を使って修正主義者の説に対応した[6]。そして、今、本物の魔法使いが論争に介入してきた。彼は、修正主義者の説の科学的枠組みを受け入れながら、プレサックの「犯罪の痕跡」――プレサックはこれを使ってビルケナウの焼却棟での殺人ガス処刑を立証しようとした――をたんに放棄することで、プレサックを目立たない場所においているのである。

 

2. フリツォフ・メイヤーの修正

 20025月、ハンブルクのニュース雑誌『シュピーゲル』の前編集長フリツォフ・メイヤーが、「アウシュヴィッツの犠牲者の数:新しい文書資料による新しい見積もり(Die Zahl der Opfer von Auschwitz. Neue Erkenntnisse durch neue Archivfunde)」と題する驚くべき論文[7]を発表した。メイヤーは殺人ガス処刑説を擁護しつつも、二つの重要な点で、それまでの研究者の説から離れている。第一に、彼は大量殺戮のセンターをビルケナウの焼却棟から「ブンカー」に移した。第二に、アウシュヴィッツの犠牲者の数を51万に下方修正した。この数字は、110万人(公式のホロコースト正史の数字)[8]とも、711000から631000人(プレサックの数字)[9]ともかなり異なっている。

 メイヤーは、「実際の虐殺は、収容所の外にあった改築された農家で行なわれたのであろう」(632頁)と主張している。彼の見解では、収容所では51万名が殺され、そのうち、ガス処刑されたのは356000名であるので、彼がほぼビルケナウの「ブンカー」で大量殺戮を行うことができたと考えていることは明らかである。

 メイヤーは、ビルケナウの焼却棟を大量殺戮の道具として使うことができたのかどうかなどのいくつかの重要な論点にも少し言及している。また、アウシュヴィッツに移送された人々の数、および、もちろん、犠牲者の総数についても扱っている。

 

3. メイヤーの修正の二つの根拠

 以下では、メイヤー説の二つの根拠をもっぱら分析することにする。メイヤーは自説を次のようにまとめている。

 

「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力についての重要文書が発見された。同時に、焼却棟の稼働時間に関する収容所長[ルドルフ・ヘス]の供述が明るみに出た。アウシュヴィッツ収容所に移送された人々についての、既存であるが、これまで無視されてきた文書記録にもとづいて、アウシュヴィッツで殺された人々の数をもっと正確に計算することができる。あらかじめ言っておくと、50万名が虐殺の犠牲者となったのである。」(631頁)

 

 メイヤーは自分の「突破(Durchbruch)」をペルトの功績であるとしている。しかし、後述するように、ペルトはこの功績にまったく値していない。

 メイヤーは、二つの自説の根拠については、よく知られた、1943628日のビショフ書簡を引用している。その書簡は、焼却棟ⅡとⅢでは、「連続24時間稼動させれば」1440「名」を1日で焼却できる、焼却棟ⅣとⅤでは、1日の数は768名であると述べていた[10]。そして、メイヤーは次のように付け加えている。

 

「アーヴィングはこの資料の信憑性についての彼の疑問をまったく立証できなかった。ペルトの反駁は、かならずしも説得的ではなかったが、生き生きとしていた。7年前、フランス人専門家プレサックは、この書簡を『SSの内部的宣伝のための嘘』というレッテルを貼っていた。」(634頁)

 

 この資料の歴史学的・科学的分析については、私の論文「重要資料:別の解釈(Key Document: An Alternative Interpretation)」を参照していただきたい。それは、アウシュヴィッツ中央建設局が書いたこの書簡の信憑性についての疑問を扱っている。この書簡は1943628日に書かれたにもかかわらず、焼却棟の処理能力というテーマを扱っている[11]

 

4. メイヤー説の第一の主要ポイント

 メイヤーはこう続けている。

 

「ペルトは、アーヴィング・リップシュタット裁判のために用意した報告の中で、まったくセンセーショナルな、二つの新しい情報の断片を提供している。これまでほとんど考慮されてこなかった既存の情報とこの新しい情報を組み合わせると、アウシュヴィッツの犠牲者の合計を正確に計算することができる。ペルトは実際には、この新しい情報に説明を加えることなく、570頁の報告の中に紛れ込ませている。そして、裁判ではそれを紹介すらしていない。それらは、アーヴィングの議論を立証しているわけではないが、ペルト自身の専門家報告とも矛盾していた。ペルトは、私の知るかぎりでは、この資料を引用した初めての人物である。この資料は、ビショフのあげている数字を半分に減らすことによって、1943628日のビショフ書簡についての疑問を呼び起こしている。

 アウシュヴィッツ建設局に雇われていた主任技師クルト・プリュファーの書簡がトップフ・ウント・ゼーネ焼却棟社(今日ではErfurter Malzerei und Speicherbau)の文書資料ファイル241の中で発見されたという。それは、194398日の日付、すなわち、ビショフ書簡の9週間後、焼却棟が完成してからのものである。それは、とくに、焼却棟の初期稼動の結果について扱っている。プリュファーによると、焼却棟Ⅰと焼却棟Ⅱはそれぞれ1日に800体を、より小さい焼却棟ⅢとⅣは400体を、合計2400体を焼却できるというのである。」(634頁)

 

 実際には、ペルトはプレサックの発見を簒奪したにすぎない。この「新発見の」資料は、実際には、7年前の1995年にプレサックによって発見されていたのである。プレサックは、EMSErfurter Malzerei und Speicherbau)の文書資料を調査していたときに、この資料に出くわした。プレサックは、1998年に発表された論文の中で、その中身を次のように要約している[12]

 

「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の処理能力という問題は、194298日のプリュファーの内部メモの中で答えられている。そのメモには、『SS全国指導者、ベルリン・リヒターフェルデ・ヴェスト、アウシュヴィッツの焼却棟:機密』というヘッダーが付いている。このメモは、焼却棟Ⅰの3つの2燃焼室炉は1日に250体を、焼却棟Ⅱの4つの3燃焼室炉は1日に800体を、焼却棟Ⅲのそれは同じく800体を、焼却棟Ⅳの2つの4燃焼室炉は1日に400体を、焼却棟Ⅴのそれは同じく400体を焼却できると述べている。理論的には、1日に2650体の処理能力となるが、これも実際には実現されなかった。当時一番高名なドイツの焼却専門家によるこのメモは、1943628日付けのベルリンあてのアウシュヴィッツ中央建設局報告が述べているような、14756体という合計の処理能力が非常に誇張されたものであることを明らかにしている。」

 

 したがって、この「センセーショナルな」資料の日付は、19439月ではなく、194298日であった。つまり、この資料が書かれたのは、ビルケナウの焼却棟がまだ存在していなかった時点のことであり、それゆえ、メイヤーのように初期の稼動効率を示しているものとみなすことはできない。

 プレサックはこの資料を公表していないので、彼の評価と要約に頼らざるをえない。この論文が提起している技術的問題の詳細については、このテーマについての私の2巻本[13]を参照していただきたい。

 強調しておいたように、ビルケナウの焼却棟は194298日の時点ではまた建設されていない。823日かその頃に、最初の3燃焼室炉がブッヘンヴァルトの焼却棟で稼動し始めた。それは、ビルケナウのものと同じであったろう。プリュファーがこの装置の処理能力について知っていたという証拠はない。一方、823日から98日までのブッヘンヴァルトでの死亡率の平均は1日に10名ほどであったことがわかっている[14]。したがって、5つの炉で800体の焼却、3燃焼室炉では1日に160体という焼却は、起こりえなかったのである。それは推測にすぎない。だが、この仮説でさえも技術的には根拠がない。テレジエンシュタットの焼却棟にあるIgnis Machine Worksモデル[15]では、焼却に35分間ほど必要であり[16]、それは、一つの炉の1日の理論的な最大処理能力41体、3つの炉では合計123体に対応している。さらに、燃料は石炭ではなく、石油を使っており、そのために、効率はさらに高いものであった。また、Volckmann-Ludwig炉からもってきた、優秀で、改良された強制通気システムを持っていた。これと較べると、トップフ社炉システムは非常に原始的であった。最後に、Ignis炉は巨大な燃焼室を使っていた。このために、焼却システムは非常に効率的となり、トップフ社の炉では達成できないような能力を発揮することができた。こうしたことを考えると、もっと低い温度で稼動しなくてはならないビルケナウの3燃焼室炉が153体の焼却(160÷3)を達成することは不可能である。同様に、8燃焼室炉を使って150体の焼却(400÷8)も不可能である。

 以上のことから、194298日のプリュファーのメモは、信頼できるデータではなく、希望的憶測であったと結論できる。

 プリュファーは、30分以下で死体を焼却する石炭燃焼炉を作ることができると実際に思っていたであろうか。プリュファーは焼却の分野では非常に優秀であったので、おそらく思っていなかったであろう。将来の焼却棟Ⅱについて始めて提案したとき、プリュファーが念頭においていたのは、30分で2体を灰にすることができる、まだ存在していない3燃焼室炉であった[17]。彼は、既存のものとは根本的に異なる、大規模な焼却施設にあわせた炉を考えていたにちがいない。しかし、実際にその後建設されたのは、燃焼室ごとに1体を焼却するためのものであった。

 194298日のメモでは、焼却棟Ⅰの処理能力もひどく誇張されている。前年に、プリュファーは、マウトハウゼン強制収容所SS中央新建設局に、2燃焼室炉は24時間で最大144体焼却できると述べている[18]

 

「私たちのプリュファー氏がすでにお伝えしましたように、その炉では1時間に2体を焼却できます。」

 

 したがって、プリュファーは、マウトハウゼンの衛星収容所グーゼンの炉の燃焼室の処理能力を、アウシュヴィッツの2燃焼室炉に詐欺的にあてはめているのである。トップフ社からマウトハウゼン強制収容所SS中央新建設局への書簡[19]によると、この炉は、「10時間ほどで、3036体を焼却することができた。」[20] これは、効果的な強制通風装置と特別な燃焼室の格子によって可能となった。アウシュヴィッツ収容所のレジスタンス運動員は、絶滅の数をいつも空想的なほど誇張して伝えているが、彼らでさえも、焼却棟Ⅰの処理能力を1200体と報告するにとどまっている[21]

 1942710日の、ビショフからシュトゥットホフ強制収容所への書簡は、将来の焼却棟Ⅱのための5つの3燃焼室炉は、30000名という収容所人口を予想して設計されていると述べている。このことは、プリュファーが、一つの燃焼室で2体を同時に焼却するという当初の考え方をすでに放棄していたことを示している。しかし、ビショフは、自分の会社の潜在的な顧客に調子を合わせるために、1体につき30分の焼却時間というきわめて楽観的な憶測に固執していた。このために、「トップフ・ウント・ゼーネ社によると、焼却には半時間ほどかかる」と書いたのである。これらの炉を使って実際に実験してみると、この憶測が希望的観測であったことがすぐにわかってしまった。戦後、彼は、焼却棟Ⅱ(したがって、コピーである焼却棟Ⅲ)の炉が焼却できたのは、1燃焼室ごとに1時間1体であったと述べている。この典拠資料は、194648年にソ連の防諜組織スメルシュがプリュファー技師に行なった尋問である。それは、フレミングによって公表されている[22]

 194635日の尋問で、ソ連の尋問官は、「アウシュヴィッツでは1時間に何体が焼却されたのか」を知りたがった[23]

 これに対して、プリュファーはこう答えている。

 

15の燃焼室をもつ5つの炉では、15名が焼却されました。」

 

 このことは、1燃焼室ごとに1体の焼却時間が平均1時間であったことを意味しており、焼却棟Ⅳ(と焼却棟Ⅴ)の理論的な最大処理能力が24時間で192体――194298日のプリュファーの書簡にある数字の半分――であったことを示している。

 1946319日の尋問で、プリュファーは次のように説明している[24]

 

「私は、炉に課せられた非常に大きな負担についてすでに申し述べました。私は主任技師のザンダーに、炉が過度の負担に耐えることができるかどうか心配していると話しました。私のいるところで、1体ではなく、2体が一つの燃焼室に入れられましたが、炉はその負担に耐えることはできませんでした」。(強調――引用者)

 

 したがって、一つの燃焼室で2体を焼却することはできなかったのである。もちろん、ここで念頭においているのは、燃焼室を損傷させずに、燃焼時間と石炭消費量を2倍にしないという、合理的で経済的な焼却である。

 上記に引用した資料だけで、ビルケナウの焼却棟は犯罪目的に使われたに違いないという主張を反駁するのに十分であろう。この資料は、2000名の囚人につき一つの燃焼室が必要であること、すなわち、ビルケナウの焼却棟の46の燃焼室は92000名のために設計されていることを明らかにしている。しかし、SSの計画では、ビルケナウは140000名の囚人を将来受け入れることになっていた。それゆえ、70の燃焼室が必要であったのである[25]。そして、利用可能な燃焼室の数は、実際には、拡張予定の収容所には不十分なものであった。一体、このような焼却棟が、自然死した囚人の死体を通常に処理することに加えて、大量殺戮の犠牲者の死体をどのように処理したのであろうか。

 メイヤーは、何とか算術上のトリックを駆使して、この問題に答えようとしている。最初、彼は、焼却時間が「1時間半」であったと述べている(634頁)。これは、1930年代の民間の炉については正しいが、ビルケナウについては正しくない。そこでの、焼却時間の平均は、前述したように1時間であった。プリュファーが尋問の中であげている時間は、私が焼却についての自分の研究書[26]で行なったいくつかの実験の結果に対応している。

 メイヤーは、24時間無休の稼動した場合、各炉は1日に16体を焼却できたと計算している(1440分÷190分=16体)。そして、焼却棟ⅡとⅢの炉では、毎日の16体の焼却×15燃焼室=240体という計算を行なっている。そして、これに加えて、彼は、各燃焼室には一時に3体を収めることができたという驚くべき憶測を行なっている。この結果、焼却できる死体の合計は13×240720体に上昇する。焼却棟ⅣとⅤについても、彼は、148×8384体という計算を行なっている。

 メイヤーの第二の仮説(1燃焼室で3体を同時に焼却する)は、燃焼時間の技術的可能性[27]とプリュファーの証言ともまったく矛盾しているのである。

 

5. メイヤー説の第二の根拠

 メイヤー説の第二の根拠は、ルドルフ・ヘスの陳述であり、彼は、これについて次のように述べている。

 

「ヘスは、1947年のクラクフ裁判での反対尋問で、『8時間か10時間たつと、焼却棟はそれ以上使用することができなくなった。焼却棟を続けて稼動されることはできなかった。』と証言しているが、ペルトはこの証言を発見したことに少し驚いている。毎日、平均9時間稼動させると[28]、燃焼室は、1燃焼室に3体を収容したとしても、118回の焼却をすることができるだけである。焼却棟ⅠとⅡはそれぞれ270体を、合計540体を焼却できることになる。焼却棟ⅢとⅣはそれぞれ144体、合計288体を焼却することになる。合計1828体となる。」(635頁)

 

 ルドルフ・ヘスの証言は、誤解や誤訳であろう。1947311日の尋問では、アウシュヴィッツ所長は焼却棟の処理能力の質問に対して、まったく見当はずれな答えをしている。とくに、彼は、焼却棟ⅡとⅢは、「24時間で(na przestrzeni 24 godzin)、少なくとも2000名を焼却できた」[29]と述べている。技術的に見れば、ヘスの証言はまったくありえないことである。トップフ社製のグーゼンの石炭燃料2燃焼室炉は19411031日から1112日のあいだに677体を焼却し、1日平均18時間稼動したことがわかっている。ビルケナウの炉の稼動は、燃焼格子の清掃のために、その1日の稼働時間が限定されている。石炭殻[30]を除去するには、炉の燃焼を停止しなくてはならない。そして(冷却、清掃、再加熱)作業には4時間の停止が必要である。だから、最大稼働時間は1日平均20時間であった[31]。したがって、焼却棟ⅡとⅢの1日の処理能力は300体、焼却棟ⅣとⅤのそれは160体となる。

 技師フランコ・ディアナとの共著論文「アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却炉」[32]の中で、私は、数多くの作業の手違いや焼却棟の破損などを考慮して、焼却棟ⅡとⅢの稼働日を971日、焼却棟ⅣとⅤのそれを359日と計算した[33]。メイヤーは注19でこの数字を受け入れ、自分の議論の中に組み入れている。

 

「結論は単純である。焼却棟ⅠとⅡの971日の稼動日には、262170体が焼却された。焼却棟ⅢとⅣの359日の稼動日には51696体が焼却された。合計313899体がビルケナウでは焼却されたのである。」(636頁)

 

 ここでは、メイヤーは、焼却棟の稼働日にその最大処理能力をかけている。すなわち、焼却棟ⅡとⅢでは971×270262170体、焼却棟ⅣとⅤでは359×14451696体となっている。

 この計算は、メイヤーが信じられないほどの論理的なあやまちをおかしていることを明らかにしている。彼は、あたかも、焼却棟が、故障や破損によって妨げられずに、毎日最大負荷で稼動していたかのように想定し、その前提に立って、純粋に理論的な最大焼却能力ではなく、実際の数を打ち出しているのである。しかし、焼却棟の「稼働日」とは、焼却棟が技術的に稼動可能な日のことを指しているにすぎない。焼却棟が常にフル稼働であることを指しているわけではない。だから、メイヤーは二重の誤った憶測をしていることになる。第一に、焼却棟が技術的に稼動可能な日には実際に稼動していたという憶測、第二に、その際、焼却棟は常にフル稼働していたという憶測である。

 不幸にも、メイヤーには論理的な思考能力が欠けていたので、焼却された死体の実際の数を大きく水増しすることになってしまった。1943年については、われわれは、メイヤーの主張する数と、文書資料に記録された正確な数を比較することができる。

 焼却棟Ⅱで大規模な焼却が始まった1943315日から1025日までのあいだ、607トンの石炭と96㎥の木材がアウシュヴィッツ・ビルケナウのすべての焼却棟に搬送されている。木材の熱量は21.5トンの石炭に対応するので、628.5トンの石炭が搬入されたといってもよい。この期間、焼却棟Ⅱは110日、焼却棟Ⅲは123日、焼却棟Ⅳは50日、焼却棟Ⅴは82日稼動した[34]。さらに、中央収容所の焼却棟Ⅰが、1943717日までの125日間稼動している。普通程度に痩せている死体を焼却するには、2燃焼室炉では石炭25kg3燃焼室炉では19kg8燃焼室炉では14kgが必要である[35]。これらの数字、および焼却棟が稼動していた時間の平均を考慮すると、1体の焼却には平均20kgの石炭が必要であったことになる。焼却棟に搬入された石炭が628.5トンであったとすると、理論的な最大焼却死体数は628500÷2031400体となる。「理論的な最大値」といったのは、かなりの量の石炭が、実際の焼却ではなく、炉を前もって加熱することに消費されてしまうからである。

 しかし、メイヤーは自分の計算にもとづいて、問題の期間に焼却された数を次のように見積もっている。

 

    焼却棟ⅡとⅢ:233×27062910

    焼却棟ⅣとⅤ:132×14419008

    焼却棟Ⅰ:125×108[36]13500

 

合計95418体の焼却死体となるが、それは理論的な最大値の三倍以上である。

 アウシュヴィッツの死亡者記録によると、16000名ほどが1943315日から1025日のあいだに死亡した(登録者数は315日に15000名から1025日の31000名にまで拡大している)。これによると、焼却(炉の加熱も含む)ごとに、1体につき39kgの石炭が必要であった(628500÷16000)。

 しかし、チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』では、この時期に、118000名ほどがガス処刑されたことになっている。もし、これが本当であるとすると、134000体の死体が存在したことになる[37]。すると、4.7kgの石炭で1体を焼却できたことになり、それは、熱力学の法則のもとでは、まったくありえないことである[38]。自然死した16000体の焼却は、文書資料に記載されている石炭の消費量に対応しているのに、ガス処刑された118000体の焼却はどのような条件であってもありえないことである。このことは、ガス処刑がありえなかったことの証拠である。

 このことは、メイヤー説の構造がまったく馬鹿げたものであることのもう一つの事例を明らかにしている。19437月、焼却棟Ⅱは18日から31日まで稼動したが、焼却棟Ⅲは丸一月稼動していた。あわせると45日稼動していたことになる。メイヤーの計算では、12150体(45×270)を焼却できることになり、実際にその数を焼却したことになる。しかし、死亡記録によると、その月に死んだのは2000名である。ダヌータ・チェクが『アウシュヴィッツ・カレンダー』に記載しているのは、720日の440名のフランス系ユダヤ人のガス処刑一件だけである[39]。もしもガス処刑が行なわれたという説を認めても、死体の数は2400名ほど、すなわち、メイヤーの計算の5分の1ほどに増えるだけである。

 メイヤーはさらに、私が『ホロコーストの解剖』の中で論じた重要な論点を無視している。すなわち、ビルケナウの炉の耐火煉瓦の最大耐久性は、私が明らかにしたように、1燃焼室につき3000回ほどの焼却であった。燃焼室が46個あったことを考えると、最大の焼却回数は13800回である[40]。この回数に到達すると、建設維持局が耐火煉瓦を取り替えることが絶対に必要であったにちがいない。しかし、焼却棟を建設したトップフ社と中央建設維持局との書簡には、このような大規模な作業のことがまったく言及されていない[41]。このことは、ビルケナウの焼却炉での理論的に可能な最大焼却数が、314000ではなく138000ほどであることをさらに立証している。

 

6. 犠牲者数

 ここで、アウシュヴィッツの犠牲者の合計を算出するにあたって、メイヤーが使っている方法を考察してみよう。

 彼はビルケナウで焼却された死体の数313866体(彼は314000体に切り上げている)という数字からはじめて、それに、194211月以前に戸外で焼却された50000体を加えている。さらに、194312月から19433月までの57000体と、中央収容所での12000体を加えている。総計433000体となっている。メイヤーが510000体という自分の最終ゴールに到達するためには、さらに77000体が必要となる。メイヤーはそれをハンガリー系ユダヤ人から持ってきている[42]。これらの死体はすべて戸外で焼却されたというのである。

 メイヤーによると、合計510000体のうち、326000体が焼却棟(314000体が焼却棟Ⅱ-Ⅴ、12000体が焼却棟Ⅰ)で焼却され、残りの184000体が戸外で焼却されたという。

 彼は、356000名の囚人がガス処刑され、154000名が「自然死」したと考えている。メイヤーは、315000名の非登録移送者に、ダヌータ・チェクによると、「194410月だけで」ガス処刑された40564名を足すことによって(638頁)、「ガス処刑された」犠牲者についての自分の数に到達している。彼は、後者は焼却棟で焼却されたと考えている。しかし、彼は焼却棟の稼働日数についての私の数字を受け入れており、焼却棟Ⅱ、Ⅲ、Ⅴは10月にはすべて稼動していたのだから、その月の理論的な最大焼却可能数を21204体(焼却棟ⅡとⅢ:31×270×216740体、焼却棟Ⅴ:144×314464体、合計21204体)としなくてはならないはずである。だとすると、なぜメイヤーは、194410月に40564体が焼却されたということを認めているのだろうか。

 

7. 焼却された死体の数

 前述したように、メイヤーは、314000名がビルケナウの焼却棟で灰に変えられたと主張している。この数字を分析しておこう。

 すでに指摘したように、1943315日から1025日までの期間、および194410月についてメイヤーのあげている数字はひどく水増しされている。前者については、メイヤーの計算では95418体となっているが、理論的な最大値は31400体である。後者については、彼は40564体という数字を上げているが、彼自身の計算方法を使っても、理論的な最大値は21204体である。

 この8ヶ月間に、9541840564-(3140021204)=83378体をいったいどのように焼却したのであろうか!

 チェクの『アウシュヴィッツ・カレンダー』によると、194311月から19449月までのあいだに、ハンガリーからのユダヤ人、ウッヂからのユダヤ人を除外して、95000名がガス処刑され、焼却されたという。ハンガリー系ユダヤ人については、メイヤーは、戸外で焼却されたと述べている。しかし、ウッヂからのユダヤ人については言及していない。メイヤーの論理からすれば、彼らの死体も戸外で焼却されたということになるであろう。さらに、総計から、焼却された死体の数を引いてみると、314000-(314002120495000)=166400体となるが、これは、焼却するには多すぎる数である。誰がどのように処理したのであろうか。

 ピペルの見積もりでは、アウシュヴィッツでは80000名ほどの登録囚人が1943年に[43]194445年には30000名ほどが死んだ[44]1943年については、石炭の搬入量にもとづいて、最大31400体ほどが、焼却棟Ⅱの稼動の開始から10月末までの時期に焼却可能であったと計算してきた。11月と12月が残っているが、ピペルのあげている13500名の死亡者数をここにあてはめてみると、死者と焼却の最大値は44500体ほどとなる。この場合でも、16640044500121900体の死体をどのように焼却したのかという問題が残る。この数字は、メイヤーによる、収容所が存在している期間に行われたすべての焼却数の3分の1以上だからである。

 

8. どうしようもない矛盾

 フリツォフ・メイヤーの説は、これまで指摘した以上に明らかな矛盾を抱えている。彼は、死者の数を510000名と考え、そのうち、356000名がガス処刑されたとしている。さらに、彼は、大量殺戮の「大半」はビルケナウの「ブンカー」で行われたと考えている。しかし、彼は、ビルケナウの焼却棟での大量ガス処刑説を否定し、一方では、ホロコースト正史でさえも戦争直後の宣伝にすぎないと否定している「ガス車」物語に依存してしまっているために、356000人のガス処刑の犠牲者がいわゆる「ブンカー」で死をむかえたと考えてしまっていることになる。メイヤー説は論理のブラックホール以外の何物でもない。

 すでに指摘したように、彼は、すべてのガス処刑は「ブンカー」で行なわれたという説を唱えている。

 

「ここでは、現存の証拠、すなわち、もともとはそのようには作られていなかった建物に(投入口、ガス検知装置など)をつけることによって『ガス室(Vergasungskeller)』に改造することに関する文書資料、ならびに、それに関連する目撃証言は、焼却棟の完成――1943年初夏――ののちに、死体安置室を大量殺戮のために利用できるかどうかを調べるために、19433/4月に行なわれた実験のことを指し示していることについては、立ち入ることはできない。

 この実験は失敗したにちがいない。換気が効果的ではなかったし、予想された大量の犠牲者が次の11ヶ月にはやってこなかったからである。実際に殺戮が行なわれたのはおもに、収容所の外にある農家を改造した二つの小屋であった。その一つ『白い家』もしくは『ブンカーⅠ』の土台が最近発見されている。」(638頁)

 

 これによって、メイヤーは、ビルケナウの焼却棟の殺人ガス室というホロコースト正史の説に挑戦していることになる。彼は、自分は「既存の証拠」に依拠していると述べているが、一つたりともあげていない。

 メイヤーがこのような深刻な修正に走っていった理由も非常に明白である。それは、修正主義的研究者が提供してきている証拠なのである。しかし、メイヤーはその証拠が指し示している確固とした事実を認めることができないし、認めようとはしないであろう。プレサックは、数十の資料を集めて、そこから40ほどの「犯罪の痕跡」を取り出してきた。この「犯罪の痕跡」は「議論の余地のあるもの」として記述されてはいるが、これらの文書資料が指し示しているものは地下の死体安置室であることには疑問の余地はない。プレサックとその他の絶滅論者は、それらは殺人ガス室でもあったと憶測している。にもかかわらず、メイヤーは従来のガス処刑説に疑いを抱いたのである。このために、メイヤーは大量殺戮の現場を「ブンカー」に移したのである。ただし、「ブンカー」が、普通の小屋以外の目的でアウシュヴィッツ中央建設局によって使われたとする資料は一つも存在しない。ましてや、そこで大量殺戮が行われたとする資料も存在しない。

 メイヤーは、「ベルリンの経済中央本部に対する建設局の建設契約」を引用している。それは、「特別目的のための既存の家の改築」についてであり(青写真はない)、その費用は「14242マルク」に達するという(メイヤー論文の注7)。しかし、すでに説明してきたように、この文書はいわゆる「ブンカー」とはまったく関係がない[45]。それは、この建築契約が登場しているのは1943101日の「武装SSアウシュヴィッツ捕虜収容所の改装のために費用計画書」の中だからである、メイヤーがこの日付に触れるのに躊躇している理由は明白である[46]。さらに、この文書にあるのは、「特別目的のための家(単数)」である。一軒の家であり、二軒の家ではない。だから、「二つの家が言及されている」というメイヤーの記述は嘘であり、ミスリーディングである。さらに、この家(単数)は、1943930日の「武装SSアウシュヴィッツ捕虜収容所拡大についての予備報告」にも登場している。だが、それは、境界の外にある建物ではなく、建設地区Ⅲの中の建物リストに存在している。いわゆる「ブンカー」のように収容所の外にではなく、収容所内部の建物903914と並立しているのである。この家々はすべて、建築地区Ⅲにある。それらは中央建設局から引き渡され、1942105日の1733号計画にあるように、居住建築として番号をふられている。その建物は、「部隊のための臨時のサウナ・衛生ステーション」として使用された。194319日のカムラーあての書簡の中で、ビショフは次のように述べている[47]

 

「ヴェルナー社製の害虫駆除装置とホッホハイム社製の強制通風様式の暖房機が、同じ様式のサウナとともに、ビルケナウの既存の建物の中に、部隊のために、臨時に設置された。それらは194212月から稼動している。」

 

 絶滅論者たちは、焼却棟の中の殺人ガス室の実在を証明するために、数十の、まったく曲解した資料を提出してきた。メイヤーは、そのような焼却棟の中の殺人ガス室の実在性に疑問を呈しているわけであるが、もしそうであるとすると、彼は、その実在性についてはまったく文書資料的証拠のない「ブンカー」の中の殺人ガス室の実在性を一体どのように立証するのであろうか。

 メイヤーは、焼却棟の中での殺人ガス処刑に対して疑問を呈することによって、数多くの目撃証言の信憑性に対しても疑問を呈していることになる。だとすると、それよりも数少ない、「ブンカー」でのガス処刑についての証言をどのようにしたら信じることができるのであろうか。

 「ブンカー」とそこでの殺戮という物語は、まさにまったく目撃証言だけに依拠しているために、事態はいっそう馬鹿げたものになっている。「ブンカー」についての目撃証言を受け入れて、焼却棟での殺人ガス処刑についての目撃証言を否定することは、まさに、メイヤーによる論理的な「命がけの跳躍」にすぎない。

 以上の欠陥にもかかわらず、メイヤー氏の道徳的勇気には感謝しなくてはならない。彼の論文は、アウシュヴィッツについての技術的な争点が、ホロコースト正史を絶壁の淵に立たせてしまっていることを、プレサックの研究以上に、如実に立証してしまっているからである。遅かれ早かれ、ホロコースト正史派の歴史家たちは、犠牲者数をX回減らした上で、そして、修正主義者にX回譲歩した上で、何年もまえに修正主義的歴史学が到達したのと同じ結論に到達せざるをえないであろう。

 

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[1] Die Krematorien von Auschwitz: Die Technik des Massenmordes, Piper, Munich-Zürich 1994.

[2] Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, The Beate Klarsfeld Foundation, New York 1989.

[3] Zeszyty oświęcimskie, 1995, pp. 309-329.

[4] Auschwitz: Das Ende einer Legende, in: Herbert Verbeke (ed.), Auschwitz: Nackte Fakten. Eine Erwiderung an Jean-Claude Pressac, Vrij Historisch Onderzoek, Berchem 1995, p. 162.

[5] 判事グレイが、アーヴィング・リップシュタット裁判の判決(11 April 2000, Point 7.125)の中に記しているように、ペルトは、一体の焼却に必要な石炭を「せいぜい3.5kgであった」と断言している。これは、シューマッハのフェラーリF2002が時速1600kmで走ることができるというようなものである。

[6] See my article "Supplementary Response to John C. Zimmermann on his 'Body Disposal at Auschwitz'" at: www.russgranata.com/Risposta-new-eng.html.

[7] Osteuropa. Zeitschrift für Gegenwartsfragen des Ostens, No. 5, May 2002, pp. 631-641. The article is available online at www.vho.org/D/Beitraege/FritjofMeyerOsteuropa.html.

[8] F. Piper, Die Zahl der Opfer von Auschwitz, Verlag Staatliches Museum in Auschwitz, 1993, p. 202.

[9] Die Krematorien von Auschwitz, op. cit. (note 1), p. 202.

[10] RGVA (Rossiiskii Gosudarstvenni Voienni Archiv), formerly TCIDK (Tsentr Chranenija Istoriko-dokumentalnich Kollektsii), Moskau, 502-1-83, p. 269.

[11] VffG, 4(1) (2000), pp. 51-56.

[12] Jean-Claude Pressac, Enquête sur les chambres à gaz, in: Les Collections de l'Histoire, Supplement to the magazine L'Histoire, No. 3, October 1998, p. 41.

[13] I forni crematori di Auschwitz. Studio storico-tecnico in collaborazione del dott. ing. Franco Deana; Anticipated publishing date with Edizioni di Ar, Padua, is early 2003.

[14] ブッヘンヴァルトでは、19428330日に335名の囚人が死亡した。831日から927日のあいだには、203名が死亡した。Konzentrationslager Buchenwald. Bericht des internationalen Lagerkomitees Buchenwald. Weimar, without year, p. 85.

[15] 焼却の全工程を完了するのに必要な時間については数多くのリストがある。See also I forni crematori die Auschwitz, op. cit. (note 13), Vol. I, 2nd part, chapter XI.

[16] Ignis-Hüttenbau の燃焼室は長さ2.6mで、これに対して、トップフ社の燃焼室は2mである。死体は荒削りの板でできた軽量の棺に納められ、燃焼室の中に押し込まれる。約35分後、水分がなくなりばらばらになった死体は、さらに燃焼室の奥に押し込まれ、ここで、焼却のもっとも重要な部分が行なわれる。その間、別の死体が燃焼室の前のほうに置かれる。このシステムでは、二つの死体がつねに燃焼室の中に存在する。一つは燃焼室の前のほうで水分を失い、もう一つは奥の方で実際に焼却される。二番目の死体が押し込まれたときが、一番目の死体の焼却の終了とみなされる。もっとも、一番目の死体もさらに20分か35分、炉の中にあるのであるが。

[17] Erläuterungsbericht zum Vorentwurf für den Neubau eines Kriegsgefangenenlagers der Waffen-SS Auschwitz O/S, October 30, 1941. RGVA, 502-1-233, p. 20.

[18] Letter from the Topf firm addressed to SS Department of New Construction (SS-Neubauleitung) at Mauthausen Concentration Camp, dated November 1, 1941. German Federal Archives, Koblenz, NS4/MA 54.

[19] Staatsarchiv Weimar, LK 4651.

[20] 一つの炉に付き焼却時間が3340分かかることになる。グーゼンの炉の燃焼格子は、30×25cmの四角の開口部を持っていた。35分後に、水分を失ってばらばらとなった死体がこの開口部をとおって、したの灰受けに落ちていき、そこで基本的な焼却が行なわれた。その間、別の死体が、空になっている燃焼室に置かれた。このシステムでは、二つの死体が燃焼室の中にあることになる。ふいごによって熱が強められるために、各格子につき1時間ごとに消費された石炭を補充することが可能になった。3燃焼室炉では、燃焼室の開口部の横格子の直径は、民間用の炉と同じく21cmであった。死体が灰受けに落ちるのは、焼却がかなり進んだ段階であった。1時間ほどあとである。

[21] Obóz koncentracijny Oświęcim w świetle akt Delagatury Rządu na Kraj, In: Zeszyty oświęcimskie, special edition I, 1968, p. 42.34日、レジスタンス戦士は、「新しい焼却棟」(焼却棟Ⅱ)の処理能力を何と13000体としている。Same as above, pp. 93f.

[22] Hitler and the Final Solution. University of California Press, 1994.

[23] Ibid., p. 200.

[24] Ibid., p. 207.

[25] Map of the POW camp dated October 6, 1942. Vojenský Historický Archiv, Prag, Fond OT 31 (2)/2.

[26] I forni crematori di Auschwitz, op. cit. (note 13), Vol. I, sec. part, chapter VIII.

[27] Ibid., chapter IX, 2.この当時、燃焼室で数体以上の死体を燃やしていたのは、動物の焼却のための施設だけであった。ベルリンのコリ社が建設した、この非常に効率的な装置では、300kgの肉を、300kgの化石燃料を使って、13.5時間以内に焼却することができた。これは、75kgの死体12体を、25kgの燃料を使って、67分で同時に焼却することに対応している。だから、ビルケナウの炉で、1燃焼室の中で3体を同時に焼却するには、1体を焼却するのに必要な時間の3倍の時間と3倍の燃料が必要であり、少しも、経済的とはならないであろう。

[28] 1943628日のビショフの書簡は、焼却棟の能力に関して、「24時間の使用」と書いているので、メイヤー説によると、この文書は偽造ということになる。

[29] Archiwum Głównej Komisji Badania Zbrodni Przeciwko Narodowi Polskiemu/Instytutu Pamięci Narodowej, Warsaw, NTN, 105, p. 99.

[30] 高温で溶解する石炭の非燃焼残余物を指す。They then drip through the fuel, are cooled by incoming air and coalesce on the grill. Here they form a deposit which clogs the spaces through which air flows.

[31] I forni crematori di Birkenau, op. cit. (note 13), Vol. I, second part, chapter IX, 1.

[32] In: Ernst Gauss, Dissecting the Holocaust, Theses and Dissertations Press, Capshaw, AL 2000.

[33] Ibid., p. 403.

[34] Ibid., p. 402. 焼却棟ⅡとⅢについては、作業日(それぞれ177日と190日から)1026日から1231日までの67日間を差し引く。

[35] I forni cremator di Auschwitz, op. cit. (note 13), Vol. I, second part, chapter X. 石炭消費量は、グーゼン収容所での実際の石炭消費量にもとづいて定められている。

[36] メイヤーの仮説によると、1燃焼室で118体=6燃焼室で1108体。

[37] この時期に戸外焼却が行われたという証人も歴史家もいない。

[38] 彼によると、3対の焼却には14.1kgが必要であったという。実際には、3燃焼室炉を800℃で稼動させるには、熱伝導と放熱による熱の損失を防ぐだけで、17kgほどの石炭が必要であった。

[39] D. Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945. Rowohlt, Reinbek 1989, pp. 535-560.

[40] ツィンマーマンの反論は、無知と詐欺にもとづいているが、それに対す再反論の中で、この問題を論じておいた。Cf. note 6.

[41] これに関する資料が存在していないだけではなく、トップフ社の作業発注状とアウシュヴィッツ内部とその周辺への搬入リストも、この作業が行なわれなかったことを立証している。

[42] メイヤーは、180000名のハンガリー系ユダヤ人がアウシュヴィッツに移送され、そのうち、100000から110000名が他の収容所に移送され、7000080000名がガス処刑されたと推定している(638頁)

[43] この数は、実際にはひどく水増しされている。

[44] F. Piper, op. cit. (note 8), p. 164.

[45] Carlo Mattogno, „Sonderbehandlung" ad Auschwitz. Genesi e significato. Edizioni di Ar, 2001, pp. 77f.

[46] この文書は、すでに完了した建設プロジェクトについても言及しているが、この文書についてペルトを介して知っただけのメイヤーは、このことを知らない。

[47] RGVA, 502-1-332, p. 46


『いわゆるヒトラー一派のガス室といわゆるユダヤ人の虐殺は、同一の歴史的嘘である。この嘘のおかげで、非常に大きな政治的・金銭的詐欺行為が容認され、そのおもな受益者はイスラエル国家と国際シオニズムであり、そのおもな犠牲者はドイツ国民―その指導者ではない――とパレスチナ民族全体である。』

— ロベール・フォーリソン教授博士

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1980年代のイスラエルの戦略 この記事は1982年2月『Kivunim、A Journal for Judaism and Zionism』の第14号、冬季5742にヘブライ語で掲載されたものである。

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