『偽イスラエル政治神話』(17)

第2章:二〇世紀の諸神話

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第2節:ニュルンベルグの正義の神話 5

(b)証言-1

 アウシュヴィッツ裁判は、フランクフルトで、一九六三年一二月二〇日から一九六五年八月二〇日までの間に行なわれた。巨大な劇場を法廷として使用したのは、大掛かりな政治的興行に都合が良かったからだが、そこでの強力な裁判上の演出にもかかわらず、判断理由の説明の段に至ると、この重罪裁判所は、判決を支える要素が、人を馬鹿にしたようなものでしかないことが明るみに出るのを防ぎ切れなかった。

[死体・検死報告・凶器なし。証言の検証も不可能]

《本法廷には、普通の刑事裁判で、実際に起きた事件の忠実な想像、たとえば、殺人の瞬間に何が起きたかの想像を組み立てるために提出されるような情報の材料が、ほとんど欠けている。犠牲者の死体も、検死報告も、死因についての専門家の結論も、欠けている。犯罪者が残した凶器、その他の痕跡も、欠けている。証言の検証も、少数の例を除けば不可能であった》(同判決理由説明)

 凶器、つまり、告発者側によれば、“ガス室”である。ところが、この通りの有様で、判事は、その“痕跡”さえ発見できなかったのである!

 疑いもなく、それは“周知の事柄”[前出、ニュルンベルグ裁判所規約21条]だから、それで満足したのだ。魔女狩り裁判の時代と同様に、自分も火あぶりの目に会う危険を冒してまで、悪魔との“肉欲の交わり”に疑問を提出するものはいなかったのである。

 一七五七年までは、太陽が地球の回りを回転していることが、周知の事柄だった。それこそが明白な事実だった。

 歴史家のセーニョボスは、ある事実の証明が、それを真実だと誓う証言の数によって判定されなければならないのであれば、中世の悪魔の存在は、他のどの歴史的人物の存在よりも確実になるであろうと強調している。

 アメリカ軍が駐留地として接収し、“戦争犯罪裁判”のセンターを置いたダッハウ[ドイツ南西部のナチ集中収容所]に、アメリカから派遣されていた法律家の一人、ステファン・S・ピンターは、つぎのように記している。

《私は、戦後の一七か月、アメリカの軍事裁判判事としてダッハウで暮らしたが、ダッハウにはガス室がなかったと証言できる。訪問者たちには火葬場の焼却炉を見せてガス室だと説明しているが、そのやり方は誤りである。ドイツのどの集中収容所にも同様に、ガス室はなかった。アウシュヴィッツにはガス室があるという話は聞いたが、アウシュヴィッツはロシアの占領地域に入っていて、ロシアはわれわれの訪問を許さなかった。……そういう状況の下で、何百万人ものユダヤ人が殺されたというプロパガンダの古い神話が使われたのだ。私は、戦争が終わってから六年後のドイツとオーストリアで暮らした経験に誓って、多数のユダヤ人が死んだことは確かだが、その数は決して百万という数字には達していないと証言できるし、この問題に関しては他の誰よりも私自身に語る資格があると信じている》(カトリックの週刊紙『アワー・サンデー・ヴィジター』〈59・6・14〉に掲載されたピンターの手紙)

 有無を言わさない記録という証拠がないので、ニュルンベルグ裁判所は、その後に出現したすべての想像たくましい物語や映像作品の数々と同様に、“証言”を頼りにしたのである。

 生存者が、証言を求められて“ガス室”の存在を確認する場合、どの例を取っても、自分が見たというのではなくて、“話を聞いた”ということでしかない。

 典型的で有名なのは、父親の後継者としてオーストリア社会民主党の党首になったベネディクト・カウツキーの例である。

 アウシュヴィッツでの生存の限界は三か月(彼自身は当時、そこに三年収容されていたのだが)と断言した後、彼は、スイスで一九四六年に発行された著書『悪魔と餓鬼』(Teufelund Verdammt)の中で、“ガス室”の話題について、つぎのように記している。

《私自身は見たことはないが、信頼できる多数の人が私に、その存在を確認してくれた》

[Il will hier noch eine kurze Shilderung der Gaskannmern einflechten, die ich zwar selbst nicht gesehen habe, die mir iber von so vielen glaubwurdig dargestellt worden sind......(シュテ-クリッヒ『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』から再引用)]

一番目の実例……[元収容所司令官を三日間も拷問]

 何人かの証言が基本的なものとされている。有名なのは、ルドルフ・ホェス、ザウケル、そしてアウシュヴィッツの医師、ニツリのそれである。

 最も重要な証人、裁判官の法衣を着て仮装した勝利者の理論を“立証する”完璧な証人として登場したのは、アウシュヴィッツ収容所元司令官、ルドルフ・ホェスだった。

 彼が逮捕された際の陳述の概要は、ニュルンベルグにおける彼の供述の筋書きとなったが、そのすべてが、この裁判所の彼への期待に応えるものだった。

 一九四六年四月五日の日付で、ルドルフ・ホェスの宣誓と署名が記された陳述は、つぎのようなものである。

《私は、一九四三年一二月一日まで、アウシュヴィッツの司令官だった。私の計算では、少なくとも二五〇万人の犠牲者が、ガス室と火葬場で処刑または虐殺され、少なくとも五〇万人が飢えと病気で死に、死者の合計は三〇〇万人になる。ユダヤ人問題の“最終的解決”は、ヨーロッパのすべてのユダヤ人の絶滅を意味していた。私は、一九四一年六月に、アウシュヴィッツでの絶滅の準備を命令された。この時期にはすでに、ドイツの支配下に三つの絶滅収容所、ベウツェック、トレブリンカ、ヴォウツェックがあった》

 半世紀にわたってメディアを通じて通俗的に普及したこの問題に関して、これ以上の完璧な確認の仕方を考え出すのは不可能だろう。

 それはともかく、この書証自体にさえ、すでに三つの事実と反する声明が含まれている。

…アウシュヴィッツにおける三〇〇万人の死者という数字は、ニュルンベルグでの審理の最初に公式に発表された数字、すなわち、ユダヤ人全体の犠牲者の数(六〇〇万人)を証拠立てるために必要欠くべからざる数字であり、それ以後の公式の歴史とメディア報道にとっての主題旋律の役割を果たして止むことがなかった数字であるが、現在では、アウシュヴィッツ=ビルケナウの新しい記念碑で、数字が四〇〇万人から一〇〇万人余[訳注1]に訂正されたのであるから、少なくとも、その三分の二を減らさなければならない。

訳注1:前出(本訳書一五三頁)のように、アウシュヴィッツ=ビルケナウの記念碑の数字は一九九四年、「約百五十万人」に修正された。著者は、その数字と同時に、この箇所以外でも「一〇〇万人余」という表現をしている。おそらくは、これも前出(本訳書一五二頁)の「一〇〇万人以上」という改訂提案が出ていた経過や、後出(本訳書二二〇~二二一頁)の論文による数字、「最小限九五万人、最大限一二〇万人」などを念頭に置いての記述と思われる。いずれにしても、本書の主張とはかけ離れた数字であるし、著者が数字を挙げる主旨は、それがいかにも矛盾だらけで信頼し得ないものかを示すことにあるので、あえて記述の意図の問い合わせをしなかった。そうした訳者の意図も、この動揺極まりない矛盾点の強調にある。

…ベウツェックとトレブリンカの収容所は、一九四一年には存在しなかった。一九四二年までは開所されていない。

…ヴォウツェック収容所となると、こちらは、いまだかつて、いかなる地図の上にも存在したことがない。

 どうして、このような“重要証言”が、あらかじめの調査もなしに記録できたのだろうか?

 ホェス自身が、その事情を説明している。最初の声明は、彼を勾留していたポーランド当局の監視の下で執筆されている。

『アウシュヴィッツの司令官/ルドルフ・ホェスの自伝』[訳注1]と題する本では、つぎのようになっている。

《私に対する最初の尋問での陳述は、私を殴って得たものである。私は署名はしたものの、何が書かれていたかは知らない》(同書)

訳注1:日本語訳題は『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』だが、以上の文中の「殴って得たもの」という部分が欠落している。訳者に問い合わせたが、そうなった経過は記憶がないという。「全訳」を明示した底本のドイツ語原本では、明確に「殴って得たもの」となっている。最早論争の余地はないので、訳者と出版社に訂正を求めているが、一九九七年八月末日現在、明確な約束は得られていない。残念ながら、これが日本の出版界の現状である。

 この頁の下に注がある……

《一九四六年三月一四日の朝、二時三〇分、ホェスは、タイプライターで打った八頁の文書に署名している。のちにホェスが、ニュルンベルグやクラクフで証言したり書いたりしたものと基本的な違いはない》

 ホェス自身は、クラクフの手書きノートに、イギリスの軍事保安警察から受けた最初の尋問の状況を描写している。

《私が逮捕されたのは一九四六年三月一一日の二三時だった。……軍事保安警察から私は酷い取り扱いを受けた。ハイデに送られ、まさに八か月前にイギリス軍から釈放された時のと同じ兵舎に入れられた。そこが最初の尋問の場所だったが、酷い仕打ちを受けた。私は署名はしたが、その陳述書に何が書かれていたかは知らない。私に取っては、たっぷり過ぎるアルコールと鞭で、すっかり参ってしまった。……数日後、私は、ウェーゼル河畔のミンデンにあるイギリス軍占領地域中央審問センターに送られた。そこでも私は、イギリス軍少佐の検察官の手で、さらに酷い取り扱いを受けた》(トロント裁判記録)

 一九八三年になって初めて、ルドルフ・ホェスが拷問を加えられた事実の確認が得られた。この拷問は、「彼自身」の口から、彼が一九四三年からアウシュヴィッツで“二五〇万人”のユダヤ人を絶滅したことの“証拠”を獲得するために行われたのものである。

 その本の著者は、ルパート・バトラーで、題名は“Legion of Death”(『死の軍団』)である。内容には、ルドルフ・ホェスを逮捕したバーナード・クラークの証言が含まれている。クラークはホェスの妻から、彼女自身と子供の死の脅迫によって、ホェスが潜んでいた農場の住所を聞き出し、そこで一九四六年三月一一日にホェスを逮捕したのである。バトラーは、クラークが“筋の通った陳述”を獲得するために、三日間の拷問を必要としたと物語る。この“陳述”こそが、前述のように、ホェスが一九四六年三月一四日二時に署名したものなのである。

 勾留期間中、クラークはホェスを殴り付けっ放しだったので、《ついには、衛生管理担当の将校が部隊長に、彼に止めろと言わないと死体を運ぶことになると主張して、止めに入った》

 注目すべきことには、バトラーと彼の話し相手のクラークもともに、これらの虐待行為に非常な満足感を覚えているように見えるのである。

 ファン・ローデンとシンプソンの両判事によるアメリカの調査団は、一九四八年にドイツに派遣されて、ダッハウで行われたアメリカの軍事裁判における規則違反行為の調査に当たった。ダッハウでは、一五〇〇人のドイツ人捕虜が裁かれ、四二〇人が死刑を宣告されたのだが、その判決の基礎となった証拠は、被告が自ら“告白”を願うように強制するために、あらゆる種類の肉体的および精神的な拷問で痛め付けることによって得られたものだった。

 調査の結果、一三九の実例の内、一三七例では、ドイツ人捕虜が尋問の最中に足で睾丸を蹴られて、回復不可能の損傷を受けていた(『プログレッシヴ』49・1掲載のエドワード・ファン・ローデン判事のインタヴュー」[訳注1])。

訳注1:ファン・ローデンとシンプソンの調査報告およびそれをめぐる状況については、拙著『アウシュヴィッツの争点』でも簡単に紹介した。一九四九年一月二七日以降のアメリカ上院における質疑応答と、提出された報告や手紙は、日本の国会図書館にもある議事録に、全部で二五頁にわたって記載されている

アウシュヴィッツ裁判……[最重要証人が獄中で毒殺された疑い]

 最も重要な被告、アウシュヴィッツ収容所の最後の司令官、リヒャルト・ベイアーは、なぜ、出廷以前に死ななければならなかったのだろうか。彼の呪われた身の上には、特別な注意が払われるべきである。彼は、ハンブルグの近辺の森林で働いていた。一九六〇年一二月に逮捕され、一九六三年六月に刑務所内で死んだのだが、その状況は奇妙であった。

 その源自体はフランスの新聞が報道した報告なのであるが、複数の情報源によると、ベイアーは、尋問のための勾留期間中、当時の彼の監督下の区域内にガス室があったと認めることを頑強に拒否していた(『アウシュヴィッツ裁判』65)。

 フランクフルト大学の法医学研究所による検死報告には、《無臭で非腐蝕性の毒物の服用の……排斥は不可能である》と書かれている。ニュルンベルグの弁護士、エバーハート・エンゲルハートは、一九七三年一二月一二日にフランクフルト検事局宛てに出した手紙の中で、この検死報告を引用し、ベイアーが尋問中に毒殺されたと断定している。

二番目の実例……[ゲルシュタイン陳述]

 ゲルシュタイン陳述は、ニュルンベルグ軍事裁判所でも一九四六年一月三〇日に証拠採用を拒絶されたほど明白に常軌を逸していたにもかかわらず、その後、フランス人のデュボスト検事によって部分的に利用され、そこに付け加えられていたチクロンBの商品説明に関して、一九六一年にエルサレムで行われたアイヒマン裁判で利用された。

 この“証言”(ニュルンベルグ裁判記録)によれば、犠牲者の数は、ベウツェック、トレブリンカ、ソビボルの三つの収容所で一日に六万人であり、総計、二五〇〇万人に達するのである!

 その他にも、七〇〇から八〇〇人が立ったまま二五平方メートルの部屋に押し込まれるという陳述がある。なんと、一平方メートルに二八人!

 アンリ・ロックは、“ゲルシュタイン陳述”の自己矛盾を論証する博士論文を提出して、“大変立派な仕事”だという推挙を得た。アラン・ドゥコーは、『ル・マタン・ドゥ・パリ』(86・9・13)紙上で、《すべての研究者は今後、この労作を念頭に置かざるを得ないだろう》という評価を加え、ロック教授個人についても、《ゲルシュタインに関して目下、最も詳しい情報を得ている人物》だと付け加えた。

 そこで、行政管理上の理由を探し求める動きが出た。ロックは、博士論文をパリ大学でルージョ教授の指示の下に作成したのだが、論文の提出先はリヴィエール教授の指示によりナント大学に移された。手続きは完璧に規則通りだったが、彼は、ナントの文学分科大学の登録料を収めていなかった! これを理由にしてロックは博士号を剥奪された。

三番目の実例……[アウシュヴィッツの医師]

 最も有名な・証人・とされているのが、ティベール・クレマーの訳により、ジャン・ポール・サルトル主宰の雑誌、『現代』61に掲載された『アウシュヴィッツの医師』の執筆者、ミクロス・ニツリである。

 一例を挙げると、ミクロス・ニツリは、ガス室について、長さが二〇〇メートルだと語るのだが、ニュルンベルグ裁判の記録によれば、その面積は、二一〇平方メートルだったり、四〇〇平方メートルだったり、五八〇平方メートルだったりする。つまり、それぞれについて、幅は、一・〇五メートル、二メートル、二・九〇メートルになる。こういう構造のガス室に、少なくとも三〇〇〇人が入って自由に動き回り、中央には柱があって、両側に腰掛けが並んでいたことになるのである。

 意味深いことには、『ユダヤ百科事典』(71)と『ホロコースト百科事典』(90)は、このニツリの作品の名を挙げていない。疑いもなく、両事典は、ポール・ラッシニエによる批判以来、同作品の信用が傷ついていることを考慮したのである。

 ニツリの最初の断言によれば、彼が収容所に入った時(一九四四年五月末)には、ガス室による絶滅が、すでに四年間続いていた。ところが、ニュルンベルグ裁判の記録によれば、一九四二年の秋まで火葬場の注文はされておらず、一九四三年二月二〇日まで準備は整っていない。

 一九六〇年八月には、ミュンヘンにある現代史研究所(Institute fur Zeitgeschichte)が、つぎのような新聞発表[訳注1]をした。

《ダッハウのガス室は完成しておらず、使用されていなかった。……ガスによるユダヤ人の大量絶滅が始まったのは一九四一年から一九四二年であり、占領下のポーランドにおいてのみであって、この目的のために用意された技術的な設備によったものであり、ドイツの領土内には、いかなる実例も見られなかった》(『ディー・ツァイト』60・8・19)

訳注1:発表者名は、本訳書二二五頁に出てくるように、当時の研究員で、のち所長の歴史家、マーティン・ブロシャットである。シュテークリッヒは、この投書を「ラッシニエの発見に対する回答」だと推測している。ブロシャット自身またはその背後の組織の意図は、結果から判断するしかない。事実経過から見ると、西側の・ガス室・に関する学問的な意味での論争は、この投書によって回避され、当時は立ち入り不可能だった東側の・ガス室・に向けて、難問題が転送された。結果として、以後、約三〇年、現場検証が不可能なまま、・ガス室・神話が維持され続けた。つまり、いわゆる「問題の先送り」の成功なのである。拙著『アウシュヴィッツの争点』では、この投書を、「事実上の定説」の変更と位置付け、「実に隠微な官僚的策略」ではないかという疑問を投げ掛けておいた。

その他の実例……[家族のために署名した労働大臣]

 ザウケル(重要被告の一人[ナチ政権の労働総監])は、ニュルンベルグ裁判で一九四六年五月三〇日、つぎのような証言をしている。

《私は、この文書に署名したことを認める。私は裁判所に、私が署名をした理由を説明する許可を求める。

 この文書は、このように仕上がった形で私に示された。私は、それを読んで署名するか否かを決めるために調べたいと許可を求めたが、拒絶された。……その後、ポーランド人か、またはロシア人の警官が入ってきて、〈ザウケルの家族は、どこにいるのだ? われわれはザウケルを連れて行くが、家族はソ連の領土で引き渡すことになるだろう〉、と脅かした。私は一〇人の子供の父親なので、家族のことを考えて、この文書に署名した。》


(18)(b)証言-2