『偽イスラエル政治神話』(25)

第3章:神話の政治的利用

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第1節:
アメリカのイスラエル=シオニスト・ロビー 1

 さて、以上のような神話は、なぜ、何百万人もの善意の人々の心の奥底に、抜き差しがたい信念として、深く根を張ることができたのだろうか

 それは、政治家の活動に影響を与え、世論を操作することが可能な、最強力の“ロビー”を作り上げたからである。

 ロビーは、その活動の方式を、それぞれの国の事情に合わせている。

 アメリカには、六百万人[総人口の四%弱]のユダヤ人が住んでいる。"ユダヤ票"は、決定的な影響力を持っている。なぜなら、棄権は増大する一方であり、二大政党の政策に大した違いがないから、選挙で過半数の票を確保するためには、小さな問題もおろそかにできないし、勝敗は、ほんのわずかの票差で決まるからである。

 その他にも、アメリカの軽佻浮薄な世論は、候補者の“ルック”[外観]や、テレヴィ写りの善し悪しに大きく左右されるので、後援組織の資金収集力と、政策の“マーケティング”[売り込み]能力とが問われる。

《一九八八年のアメリカの上院議員選挙では、一億ドルの政治資金が必要だった》(アラン・コッタ『世界各国の資本主義の現状』91)

 アメリカの議会で公式に認められているロビーの中で最も強力なのは、AIPAC(“アメリカ=イスラエル公事委員会”)である。

 アメリカのシオニストが、いかに強力なものであるかを如実に示すのは、すでに一九四二年、ニューヨークのビルトモア・ホテルで作成されていた過激な内諾の憲章による決定である。その決定とは、[世界シオニスト機構イギリス代表のロスチャイルド家当主に、一九一七年当時のイギリス外務大臣]バルフォアが約束した“パレスチナの内部のユダヤ人の郷里”[homeland]を、その主旨のような、イギリスまたはアメリカの保護下における土地の買収による緩やかな植民としてではなくて、「ユダヤ人の主権国家」[Etat]の創設として通用させることだった。

 政治的シオニズムの歴史を全体にわたって特徴付ける二枚舌の性格は、その創始者、ヘルツルの努力の帰着点としての、この一九一七年の「“バルフォア意思表示”」の“解釈”の仕方に典型的に表わされている。“ユダヤ人の国家的郷里”という用語は、バーゼル会議[前出、一八九七年八月]でも問題になっていた。ロスチャイルド卿は、「“ユダヤ民族の国家的原点”」を唱導する宣言の草案を準備していた。バルフォアの最終的な意志表示では、パレスチナ全体について語っておらず、ただ単に、“パレスチナの「内部に」[in]ユダヤ民族のための国家的郷里を設立する”となっていた。実際のところ、世間は皆、いかにもそれが精神的および文化的なセンターとしての「“郷里”」であるかのように語りながら、心の中では、ヘルツル自身がそうであったように、国家[Etat]として考えていたのである。

 ロイド・ジョージ[バルフォア意志表示当時のイギリス首相]は、著書、『平和協定の真実』(38)の中で、《疑いもなく閣僚の全員が、その当時、……やがてパレスチナは独立国家になると考えていた》と書いている。意味深いことには、戦時内閣のメンバーだったスマッツ将軍も、一九一五年一一月三日、ヨハネスバーグで、つぎのように語っていた。

《つぎの世代には、あそこ(パレスチナ)に再び、偉大なユダヤ人の国家が築かれるだろう》

 一九一九年一月二六日には、カーゾン卿が、つぎのように書いていた。

《ヴァイツマンが何かを語る時、聞き手は“ユダヤ民族の国家的郷里”のことだと考えるかもしれないが、彼は、まったく違うことを考えているのだ。彼が思い描いているのは、ユダヤ人国家と、ユダヤ人に服従するアラブ人の全住民の有様である。彼は、この計画を、イギリスの保証を取り付けて、その煙幕の陰に隠れて実現しようと企んでいる》

 ヴァイツマンは、イギリス政府に対して、シオニストの目標が四百万から五百万のユダヤ人からなる“ユダヤ人国家”であることを、明瞭に説明していた。ロイド・ジョージとバルファオアは、彼に対して、つぎのように保証した。

《バルファア意思表示では、“ユダヤ人の国家的[national]郷里”という用語を使用するが、われわれは当然、それがユダヤ人国家[Etat]であることを了解する》

 一九四八年五月一四日、テル・アヴィヴでベン=グリオンは、つぎの言葉で独立を宣言した。

《パレスチナの内部[in]のユダヤ人国家は、イスラエルと名乗る》

 ユダヤ人の間にも意見の相違がある。ベン=グリオンのように、世界中のすべてのユダヤ人にはイスラエルに来て住む義務があると信ずる者もいれば、アメリカにおけるユダヤ人の活動の方が、より重要だと思う者もいる。イスラエル自体との関係でも、後者の方が優勢である。アメリカとカナダからイスラエルに移住した三万五千人の内、イスラエルに定着したのは、わずか五千四百人のみである(『われわれは一体だ!/アメリカのユダヤ人とイスラエル』78)。

 イスラエルは、ロビーの厚かましい圧力の効能あればこそ、国連の目こぼしを受けられるのである。

 アイゼンハワー[第二次世界大戦でヨーロッパ戦線の最高指揮官、元帥、のち大統領]は、石油産出国のアラブ諸国の離反を望んでおらず、つぎのように語っていた。

《[アラブ諸国は]驚異的な戦略的エネルギーの源泉であり、世界の歴史上、最も巨大な富の宝庫の一つである》(『民族的連携と外交政策』)

 トルーマンは、選挙に勝つために将来の不安を棚上げにして、彼の後継者たちと同じ姿勢を示した。

 シオニスト・ロビーの勢力と“ユダヤ票”に関しては、トルーマン大統領自身が一九四六年、ある外交官たちの集まりで、つぎのように告白している。

《皆さんには申し訳ないが、私は、シオニストの成功を願っている何十万人もの人々の期待に応えなければならない。私の選挙民の中には、アラブ人は千人もいない》(『ローズヴェルトとイブン・サウド/中東のアメリカの友人たち』54)

 元イギリス首相、クレメント・アトリーは、つぎのような証言を残している。

《アメリカのパレスチナ政策は、ユダヤ票と、いくつかの大きなユダヤ人企業の献金によって、具体化された》(クレメント・アトリー『首相の回想』61)

 一九五六年には、イスラエルが、フランスとイギリスの指導者の支援を得て、スエズ運河を侵略したが、アイゼンハワー大統領は、ソ連と協調により、これを中止させた。

 ケネディ上院議員[当時]は、この事件に対して、何らの熱意をも示さなかった。

 一九五八年、ユダヤ人協会の“組織代表者協議会”は、議長のクルズニクに、大統領選挙の予定候補、ケネディとの接触を依頼した。クルズニクは、ケネディに対して、無遠慮に宣言した。

《もしも、あなたが、言うべきことを言うのであれば、私を当てにしても良い。そうしないのなら、あなたに背を向けるのは私ひとりではない》

 その言うべきことについては、クルズニクが、以下のように要約してケネディに告げた。スエズ事件の時のアイゼンハワーの態度は最悪だったが、一九四八年のトルーマンの選択は正しかった、と。……ケネディは、彼が民主党の大会で大統領候補に指名された一九六〇年に、この“助言”に従った。彼は、ニューヨークで、ユダヤ人のお歴々を前にして立候補を発表し、五〇万ドルの選挙資金を受けとり、クルズニクを助言者にし、ユダヤ票の八〇%を確保した(前出『われわれは一体だ!/アメリカのユダヤ人とイスラエル』78)。

 一九六一年の春、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルで、ベン=グリオンと初めて会った時、ジョン・F・ケネディは彼に対して、こう語った。

《私は、アメリカのユダヤ人が投票してくれたお陰で選挙に勝てたことを、良く知っています。私は、選挙で恩を受けました。私がユダヤ人のためにしなければならないことを、おっしゃって下さい》(『ベン=グリオン/武装した予言者』に引用された『ロビー』の記述)

 ケネディの後継者、リンドン・ジョンソンは、さらに先を行った。あるイスラエルの外交官が、こう記していた。

《われわれは重要な友人を失ったが、さらに良い友人を得た。……ジョンソンは、ユダヤ人国家がこれまでにホワイトハウスで得た最良の友人である》(『イスラエルの防衛線』81)

 ジョンソンは、実際に、一九六七年の“六日間戦争”を強力に支えた。その後、アメリカのユダヤ人の九九%が、シオニズムのイスラエルを守った。

《ユダヤ人であるということは、現在では、イスラエルとの連携を意味する》(『現代のシオニズムの形成過程』81)

 一九六七年一一月の国連二四二号決議は、戦争中の占領地区からの撤退を求めている。ドゥ・ゴールは、この侵略が行われたのちに、イスラエル向けの武器の輸出禁止を宣言した。アメリカの議会も、これに呼応した。ところがジョンソンは、一二月になるとAIPAC[前出]の圧力に屈して、輸出禁止を解除し、イスラエルが注文した戦闘機、ファントムを引き渡した(前出『民族的連携と外交政策』)。

 この結果に鑑みて、イスラエルは、ヴェトナム戦争への批判をしなかった(アッバ・エバン『自伝』)。

 一九七九年になって、ゴルダ・メイア[当時のイスラエル首相]が欧州連合を訪れた。ニクソンは、彼女を“旧約聖書のデボラ”[女性の予言者]と比較し、イスラエルの経済的発展(ブーム)へのお世辞を垂れまくった(『もう一つのアラブ=イスラエル紛争』85)。

 ゴルダ・メイアは、国連決議二四二号の主な要素を再確認した“ロジャーズ提案”を拒否した(前出『イスラエルの防衛線』81)。

 ニクソンは、さらに四五機のファントムをイスラエルに引き渡し、八〇機のスカイホーク爆撃機を追加した。

 一九七〇年九月八日、ナセル[元エジプト首相]が死に、後継者のサダトは、イスラエルに平和を提案した。イスラエルの国防大臣、モシェ・ダヤンは、外務大臣のアッバ・エバンを差し置いて、その提案を拒否した。

 そこでサダトは、一九七三年一〇月六日、のちにヨム・キップル戦争と呼ばれるようになった奇襲攻撃に成功し、ゴルダ・メイア夫人の評判を打ち砕いた。一九七四年四月一〇日、彼女は、モシェ・ダヤンとともに、辞任に追い込まれた。

 にもかかわらず、アメリカ議会のユダヤ・ロビーはワシントンで、イスラエルの武装強化を加速する上での重要な勝利を得た。二〇億ドルの援助の予算が、競争相手のアラブ・ロビーとの戦いに備えるという口実で成立したのである(『エルサレムの戦士』)。

 さらにウォール街のユダヤ人銀行による献金が、政府の援助に付け加えられた(前出『民族的連携と外交政策』および前出アッバ・エバン『自伝』)。

 ヒュバート・ハンフリイ上院議員に一〇万ドル以上の政治資金を提供した二一人の内、一五人はユダヤ人だった。その筆頭格は、“ハリウッドのユダヤ人マフィア”の頭目、リュー・ワッセルマンだった。彼らは、通常、民主党の選挙資金の三〇%以上を提供していた(『ユダヤ人とアメリカの政治』74)。

 AIPAC[前出]は、さらに活動を強めて、三週間の努力により、七六人の上院議員の署名を取りまとめ、一九七五年五月二一日、フォード大統領に対して、彼らと同じようにイスラエルを援助するよう申し入れた(『アラブ人・イスラエル人とキッシンジャー』)。

 ジミー・カーターは、教えられた通りに動いた。ニュージャージー州エリザベス市のシナゴーグ[ユダヤ人教会堂]で、青いビロードのトーガをまとった彼は、こう語った。

《私は、あなた方と同じ神を敬う。われわれ(バプチスト)は、あなた方と同じ聖書を学ぶ》。そして彼は、こう結んだ。《イスラエルの存続は政治的な駆け引きの問題ではない。道徳的な義務だ》(『タイム』76・6・21)

 この時期に、ベギンと宗教政党が、イスラエルの政権の座を労働党から奪った[訳注1]。彼の伝記には、つぎのように記されている。《ベギンは、彼自身のことを、イスラエル人である以上にユダヤ人だと考えている》(『ベギン/取り付かれた予言者』)

訳注1:ベギン[7代首相]は、典型的な極右・暴力優先主義者。本書にも出てくるイギリス植民相モイン卿を暗殺したウラジミール・ジャボチンスキー系統のヘルートを率い、一九七七年に政権を奪取、その後、群小極右政党を吸収し、リクード[統一の意]を結成した。ベギン以前は、すでに“ハアヴァラ商会”計画参加のイスラエル首相として本書にも登場したベン=グリオン[初・3代]、シャレット[2代]、エシュコル[4代]、メイア[5代]から、政権に返り咲いて二度目の勤めで暗殺されるラビン[6・10代]まで、すべて労働党。ラビンの前後は、シャミール[8代・リクード]、ペレス[9代・11代・労働党]、ネタニヤフ[12代・リクード]となる。ただし、労働党だから左とは限らない。イラエルの労働党も、アパルトヘイト時代の南アフリカ労働党と軌を一にする極右人種差別主義政党である。

 一九七六年一一月、世界ユダヤ人評議会の議長、ナフム・ゴールドマンは、大統領と、彼の補佐官、ヴァンスとブルゼジンスキーに会うためにワシントンに出掛けた。彼は、カーター政権に、つぎのような予想外の助言を与えた。

《アメリカのシオニスト・ロビーと手を切れ》(『シュテルン』78・4・24)

 ゴールドマンは、シオニスト運動に一生を捧げてきた。トルーマン時代から、“ロビー”の中心で重要な役割を演じてきた。その彼が今や、彼自身が創設した[アメリカ・ユダヤ人協会の]組織代表者協議会について、中東の平和を実現する上での“破壊的な圧力”であり、“主要な障害”であると語っているのである。

 ベギンが権力の座に着き、ゴールドマンは、自分が築いた圧力団体が崩壊する危険を冒してまでして、ベギンの政策を地下から爆破しようとした。

 六年後、この会見の参加者の一人、サイラス・ヴァンスは、ゴールドマンの助言の内容を認めて、こう語った。

《ゴールドマンは、ロビーと手を切れと助言した。しかし、大統領と国務長官は、われわれには、そんな力はないし、下手をすると、反ユダヤ主義に市民権を与えかねないと答えた》(前出『ロビー』)

 労働党と権力を分かち合っていたベギンは、シモン・ペレス[労働党]に代えて、モシェ・ダヤンを外務大臣に任命した。アメリカのユダヤ人の組織代表者協議会の議長、シンドラーは、この極右を優遇する政策転換を歓迎し、ダヤンは実用主義的だと強調する支持を表明した。ベギンは、しばらくの間、アメリカのシオニストを労働党の支持者と見なし、気にもかけていなかった。

 しかし、アメリカの実業家たちは、ベギンに対するユダヤ人法師たちの影響力や、とりわけ、労働党の国家管理による干渉政策とは対照的なベギンの“自由企業”への執着振りに注目し、一九七八年のキャンプ・ディヴィッド協定を歓迎した。サダトは、イスラエルと単独和平協定を結び、ベギンに言わせれば“聖書の地”であるジュデやサマリアを含むヨルダン川西岸にはふれずに、同じくベギンに言わせれば“聖書の地”ではないシナイ半島だけを取り戻した(前出『『ユダヤ人とアメリカの政治』74)。

 一九七六年、カーターはユダヤ票の六八%を得た。一九八〇年には、四五%しか得られなかった。この間にアメリカが、F15戦闘機をエジプトに売り、“エイワックス”[戦略戦闘爆撃機]をサウディ=アラビアに売ったからである。その際にアメリカは、それらの兵器がイスラエルに対して使われることはあり得ないと保証し、アメリカ軍がそれを管理し、現地情報を掌握すると約束した。

 それでもカーターは一九八〇年、レーガンに負けた。レーガンは、カーターとは反対に、イスラエルに対する六億ドルの軍事資金貸し付けの二年間延長に同意した。

 ベギンは、キャンプ・ディヴィッド以後、エジプトから背後を襲われる心配がなくなり、さらには、サウディ=アラビアのエイワックスを完全にアメリカが管理するという保証を得たので、予防戦争を実行する力があることをアメリカ人に見せつけた。ベギンは、日本がやった真珠湾攻撃や、イスラエルがエジプトの空軍基地を急襲した六日間の戦争の場合のように、イラクがフランスの協力を得て建設したオシラクの原子力発電所を、宣戦布告なしに、いきなり破壊した。

 ベギンは、いつも同じ文句の聖なる神話の祈りを唱えていた。

《ホロコーストは二度と許さない》(『ワシントン・ポスト』81・6・10)

 中東の状況悪化を恐れるアメリカ人の抗議が、あまりも小さいので調子に乗ったベギンは、一か月後の一九八一年七月一七日に、彼の説明によると、PLOの基地を破壊する目的で、ベイルートの西部を爆撃した。

 レーガンは、その時、サウディ=アラビアに、八五億ドル分のエイワックスとミサイルを売る計画を発表した。もちろん、決してイスラエルへの脅威にはならないし、アメリカの管理は万全だという条件の下である。

 アメリカの上院は、この経済的に結構な商売と、ペルシャ湾岸におけるアメリカの計画の強化を、喜んで承認した。サウディ=アラビアは、シリアやヨルダンの上空にエイワックスを飛すつもりはないし、当然、イスラエルの上空を飛せたりはしないと約束した(『ファクツ・アンド・ファイルズ』81・9・20)。

 相も変わらず旧約聖書の伝説の“偉大なイスラエル”の幻想に取り付かれたベギンは、労働党が始めたヨルダン川西岸の入植地へのイスラエル人の移住を熱心に継続した。カーターは、これを“違法”であり、国連決議二四二号と三三八号に違反していると宣言した。ところが、レーガンはイスラエルに、ペルシャ湾岸の石油に対するソ連の狙いを防ぐ役割を見ていた。一九八一年一一月、ベギン政権の国防大臣、アリエル・シャロンは、アメリカの同役、カスパー・ワインバーガーと会見し、彼と一緒に、ペルシャ湾岸に対してのソ連の脅威の、すべてを封殺する“戦略的協力”計画を作り上げた(『ニューヨーク・タイムズ』81・12・1)。

 一二月一四日、ベギンはゴラン高原を併合した。レーガンは、この新しい国連決議二四二号への違反行為に抗議した。ベギンは反抗した。《わが国はバナナ共和国か? 貴国の属国か?》[いつでもアメリカの言いなりになる中南米の弱小国とは違うという意味](『ニュー・リバブリック』82・6・16)

 翌年、ベギンは、レバノンを侵略した。アメリカの統合参謀本部長、ヘイグ将軍は、この侵略に青信号を出した。ベイルートには、キリスト教徒の政府が実現した(『イスラエルのレバノン戦争』84)。

 アメリカ人で、この侵略を批判した者は少数だった。それは、イスラエル人がアメリカのヴェトナム侵略に対して取った態度と同様だった。しかし、サブラやシャティラでの虐殺が、シャロンやエイタンの目の前で行われ、共犯関係にあったことが知れ渡り、テレヴィの映像が与えた印象が増幅されると、ユダヤ・ロビーも沈黙を守り続けるわけにいかなくなった。

 世界ユダヤ人評議会の副議長、ヘルツバーグと、かなりの数の法師たちが、一九八二年八月に、ベギンを批判した。ベギンは、テレヴィで彼を批判したシンドラー法師を、《ユダヤ人である以上にアメリカ人》だとして非難した。彼の子分の一人は、シンドラー法師を、《裏切り者》として告発した(「アメリカのユダヤ人とイスラエル/その分裂」『ニューヨーク・タイムズ』82・10・18掲載記事)。

 AIPAC[前出]スポークスマンは、自分と同様に侵略を容認している人々の戦略を、つぎのように説明した。

《われわれは、イスラエルへの支持を右翼から強めることを望んでいる。“ヨルダン川西岸”[不法占領地]で起きていることなどは気にせずに、むしろ、ソ連を相手にする人々と協力する》(前出『ロビー』)

 この折には、キリスト教徒のシオニストも、イスラエルの侵略を支持した。彼らの指導者のジェリイ・ファルウェルは、ユダヤ人が六百万人しかいない国の中で、《アメリカの六千万人のキリスト教徒を代表する者》とベギンから呼ばれ、シオニストとしての最も高い栄誉を受けた。イスラエルに対する協力に対して、ジャボチンスキー賞とともに、イスラエル国家から一億ドル、スワッガート基金から一億四千万ドルが授与された(「力、栄光……政治」『タイム』86・2・17掲載記事)。

 経済力は、その結果としての政治力とともに、何でも売り買いの対象となる世界の中で、ますます決定的となる。

 一九四八年以来、アメリカはイスラエルに、二八〇億ドルの経済および軍事援助を供給してきた(『タイム・マガジン』94・6)。


(26)外部資金による"偉大なイスラエル"への野望